松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

自己放任

 

週刊東洋経済 2018年11/3号 [雑誌]

週刊東洋経済 2018年11/3号 [雑誌]

 

 週刊東洋経済に「セルフ・ネグレクト」(自己放任)の記事が掲載されています。ほんとうはもっとも自分の身体を大事にしないといけないのに、食事にも健康にも気をつかわない「緩やかな自殺」と呼ばれている社会現象です。
ただ、これを読んでいておもうのは、食事や健康に気をつかう時間があれば、ほかのひとに追いつくための何かをやらなければならないひとにとって、そんな余裕はないということです。ずっと無職で派遣会社経由でしか雇ってもらえるところがなく、時給が安い生活を送るひとに「食事や健康に気をつかえ」というのは、いじめです。周囲と話をあわせるためにマンガや週刊誌を読み、積極的な同化を試みているひとも、忙しいのです。
赤貧が学生だった頃は、携帯電話は一部のビジネスマンのためのものでした。ポケベルがまだ生存していた時代です。公衆電話もテレホンカードも健在でした。やがて携帯電話が普及し、四六時中いつでもつかまるのが当然の時代になっていきます。顧客からの拘束はどんどん激しくなり、モーレツ社員だけの常識が、そうでない層にも暗黙に強制されるようになりました。
テレビなどで話題になるブラック企業は、ミスをすれば丸刈りにしたり、折檻したりする犯罪級の存在で、逆に言えば、そういうレベルでないと話題にすらならないほど、ブラック化が拡散しているわけです。
走らなければ生きていけないひとに、後ろを振り返れは、酷です。帰りついたらシャワーを浴びて寝たいと思っているひとに充実した健康的な食事をどうにかしろというほうが、どうにかしています。
どういう時代になっても、一部には仕事、カネ、余暇、そのほかすべてを手に入れる存在があり、かたや、仕事に追われて健康を害して死ぬひとや、赤貧のように生活困窮で孤独死予備軍としてなんとか生きながらえていくひとも居るのが社会です。どうも自己放任という言葉は、そこに追い込まれざるを得なくなったひとびとに、無理な要求をしているのではないかという気がするのです。
そういう社会が間違っているのですが、その社会を変えることが果たして出来るでしょうか。敗戦とOccupied Japanで、やっと現体制に移行しえた日本が、自らのちからで自分を作り変える……。それはない気がします。