美風庵だより

風にちる 花のゆくえは 知らねども

悩む……( 一一)

http://www.sobunsha.co.jp/bookdates/ISBN978-4-423-73114-7.html
民法学における思想の問題
 
昔ならった先生の本が出てます。
 
今読んで判るかどうかという点がまず問題。
つぎに、そもそも自分は判るのかという点も問題。
 
私が学生だったころ、民法の先生という感じじゃなくて、「自分のおもうままにへーゲルを語る先生」って思ってた。
講義より、講義でないところで話を聞く時間のほうが長かったからかもしれない。
 
いまでもそうなのだけれど、へーゲルにしても、サルトルにしても、「なんでこんなに、世の中を全部支配してやろう、なめつくしてやろう、と考えるのだろう」と疑問を抱きながら読んでいた時期があって。今風にいえば、中二病なんですよ。彼ら。
ただ、そこらへんの中学生ではなくて、おそらく人類が生んだとびぬけて優秀な中二病患者。
 
サルトルのほうが、まだ思いつくまま、ひらめくまま飛躍・飛翔していく知性という感じで、いきなりどこからともなく「意味がおりてくる」「どこからかつかんだ言葉にイメージを語らせる」という部分があるだけ、甘かった。とっつきやすかったと言ってもいい。
ヘーゲルは、とにかく読みにくくて( 一一)原島先生をはじめ、いろんなひとの「ああだこうだ」を聞きながら、なんとなく読んでいったというのが正解で。
 
おぢちゃんは、たまたまなにかの拍子で高校時代に、デューイの「民主主義と教育」「哲学の改造」を読む機会があって、これらもよくわからないまま、なんとなくすごいものだとは思っていたのだけれど、当時まだ天神コアにあった紀伊国屋で、たまたまローティの「哲学と自然の鏡」を手にとって、1時間ほど立ち読みして、結局買ってみた。
「歴史とか真理とか、いろいろ小難しい理屈ならべても、どれも結局回答だしてないじゃん。もうそういう、手を振り上げて自分が正しい!って叫ぶのをやめよう。皆で話し合って、試していく。そこに未来を賭けようじゃないか」と、非常にぶっちゃけて言えばこんな中身の本で、「ああ、そういうことだ。たぶんそうだ」と合点がいって、そこからいろんなものが整理できるようになったというか。
 
その時期と前後して、河村望さんによるデューイの新訳が出版されはじめます。「哲学の改造」と岩波文庫では題されていた本も、「哲学の再構成」とよりわかりやすいタイトルになり、南イリノイ大学ってところから出ている英語の全集とつきあわせつつ、ぱらぱらと読んでみたり。
あれから哲学をまともに読むことは減った、というより激減してます。もともと頭よくないしね。
当時そこまで匂いを嗅ぎつけられなかったけれど、フッサールにしてもハイデガーにしても、世界を知的に支配しようという征服欲は、ヘーゲルにもサルトルにも負けてない。いや、「哲学の終焉」と言っているローティですら、やはりどこかに体系がひそんでいる。そもそも、主張したり、批判したりできるのは、その背景に考えがあるからであって、引きずり下ろすこと自体が、すでに正義になっちゃってる。
 
ただ、一般人の私にできるのは、そういういろんな「物語」を下敷きにして、語るべきもの・しなければならないものを正当化していく試みを、こつこつ積み重ねていくことだけなのかな、という気はしています。
 
先生は、自らの研究の分野で、「自分が研究している分野はこの社会の何なのか」をこつこつ考えて積み重ねてこられたわけで。
 
も少し小銭が出来たら注文するかなv(^o^")v