松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

氏神様

今日も梅をもぎに行ってきたわけですが。久しぶりに車で2,3分のところにある「氏神様」に行ってみました。もう10年は軽く来てないです( ;^^)びふさんの一族が戦国時代がおわって江戸時代になるころ、逃げ回って日田に逃れて、そこから分家して秋月藩に出仕して、入植して今の実家から2,3分のところにたどりついて、一番最初に屋敷を構えたのがここらしい。
で、そこから車で2,3分のところに、砂鉄堀りの人足さんたちと住んでた館があったと伝わる場所がありまして(子供のころ、〜城という名前を祖父に習ったのですが、忘れた)、そこはまた別の機会に。
 
で。このほとんど手入れが行き届いてない階段、昔はちゃんとした石段だったのですが、台風かなにかのときに崩落し、手入れがめんどくさいので、コンクリート流してただの坂にしちゃったという代物です。今、誰か手入れしてんのかなここ( 一一)
 
コンクリートの坂を上りおわると、ちゃんとした石段があって、その上に祠堂があります。祠堂のなかも撮ってみたのですが、手入れが行き届いてなくて落ち葉が積もりまくってたので公開しません( ;^^)さすがにね。
 
ついでに言うと、この祠堂は通称「福智社」です。
 
直方に、おぢちゃんの本姓と同じ地名があります。
そこは、福智山の山麓です。
そしてなんといっても福智山の次は鷹取山
小石原に「皿山」というところがありますが、もともと高取焼は直方・鷹取山山麓発祥だからね。
そして、英彦山の座主(一番偉い神主さん)に皇族が降下してくるようになるまで、代々座主は福智山から英彦山に通ってたわけで。皇族が座主に降下してきて、神主その他英彦山関係者も、皇族の居宅があった朝倉市黒川とか、小石原近辺に大移動してきたわけで。
 
「じつは直方から南下したんぢゃね?
 本家とか言ってるあいつらのほうが分家なんじゃねえか?
 明治になってから本家分家の付き合いになったってことは、
 じつは本家じゃないんじゃないのか?」
  
日田市内にもっと本家筋の家があって、そこの家が主張している言い伝えをベースに世間に話してるわけですが、前から、「本当か?」という疑問はずっと抱いてまして。
 
つか、うちがもし日田から北上してきたのなら、
なんでこの祠堂が「福智社」なのか?という問題がのこるわけです。
直方から南下してきたのならこれが「福智社」でも納得いくけど、そうなると、近所に「納言原」という秋月氏VS秀吉軍の古戦場があって、一帯が荒れ果てたあとに、秋月藩に出仕してたご先祖様が入植して、祠堂が今建ってるところ(秋月氏側の指揮所跡地らしい)に家を建てて、遠賀川の砂鉄堀りの頭領やってました、という「言い伝え」と合わなくなる。
 
ただ、もう20年以上前にお亡くなりになった近所のじいさん曰く、すでにご先祖様が入植する前に「福智社」はあったらしい。
そのじいさんが指摘する元々の「福智社」は、おぢちゃんの実家が持ってる山の中にある。
新しく見えるのは、おぢちゃんが小学生のころに作り直したからですが、そのじいさん曰く、「もともとこの祠自体がここにあって、しかもご神体が3つある。ご先祖様が、我が一族がここにおられるのも、家来3名が身命を賭して我が祖父を守ってくれたからだ。ちょうど3つご神体のある祠がある土地を預かるとは、なんと奇遇かと喜んで、地の者に聞いたら「福智社」とこたえたんで、「福も智も縁起がよい我が一族必ずや隆盛」と喜んだ、と習った」とのこと。
 
つまり、たまたまここで「出会った」って理屈なわけよ(~ヘ~;)
 
それがうそくさいんだけどね。