松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

9月24日の日録

手堀りで1kmのトンネル。

youtu.be

中山隧道 - Wikipedia

中山隧道(なかやまずいどう)は、新潟県長岡市と魚沼市間にある国道291号の旧道のトンネル。全長は922 mあり、手掘りの道路トンネルとしては日本最長である。
1933年から1949年にかけて東竹沢村の小松倉集落住民の労働奉仕により作られた。
(略)
着工から15年以上が経過した1949年(昭和24年)5月1日に広神村側に貫通した。中山隧道の貫通は、小松倉地区の住民たちにとって大きく生活環境が改善し、雪が降った時でも中山峠を20分で越えられるようになった。

ひさしぶりに妙に感動。なんとトンネルの成否は、公職追放が握っていたわけだね……。

やっと一般紙でも報道。

「安倍一族」このまま断絶か…後継候補に断られ「事務所閉鎖」「後援会解散」の大ピンチ(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

「安倍さんの元有力秘書・鮎川建司さんが、支援者の自宅を回り『12月いっぱいで安倍事務所を閉鎖することになった。後援会も解散します』と伝えたのです。事務所周辺に貼ったままだった安倍さんのポスターも剥がし、来年2月にある下関市議選の候補者のものに貼り替えた。安倍さんに近い人が(山口4区の補選に)出るなら、そのままにするはずなのに」
(略)
政界の「ゴッドマザー」と呼ばれる安倍氏の母・洋子さんのもと、元秘書らが後継者探しに奔走してきたものの、ついに万策尽きたのだ。

この記事にあがってる市長さんは、次の市長選で対抗馬立てられたら勝てないともっぱらの評判で、敢えて補選出るより市長を任期までまっとうして退職金もらったほうがマシじゃないかと噂でした。

さすが東京のマスコミですね。わざとピンボケなのか本気でノイズつかまされたのかは、わかりませんが。

そもそも親分が居なくなって足元がすぐ瓦解しはじめましたし、ゴッドマザーな洋子さまも実家の岸家(実家にアベベの弟養子にだして、きちんと後釜準備するくらい。実家が大事)には必死になって後継者つくるでしょうが、嫁入り先まで面倒はみませんわね。

きょうはおやすみ。

朝から「神社めぐり」を作成しているのですが、妙にディープなところにひっかかったらしく、まったくすすみません。予定の半分もできていません。いろいろ不義理を働いておりますが、どうごご容赦ください。

志井(しい)という名の由来 四つの井戸を探す-その②- 福岡県北九州市小倉南区志井 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ

多賀神社に足を伸ばした行きがかり上、いつも拝読しているサイトを参考に「志井」の四つの井戸を探す旅に出るつもりでしたが、すっかり暗くなってしまいました。近々、これをやろうとおもいます。

小倉南区志井地区の史跡等

すでに紹介済みのサイトをみると、竹林の植生があるかどうかが目印のようなので、生え際をさがしながら歩けばある程度はわかるでしょう。

宗像市鐘崎 今宮神社


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赤い鳥居がみえたので近づいてみると、今宮神社とありました。

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織幡神社の参道途中に「今宮社」があり、その関連だろうとはおもうのですが、そもそも今宮社じたいが福岡県神社誌で「御祭神不詳」とされており、謎です。

福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2022.04.07訪問)

以下参考のため、後日記載する織幡神社にかんする福岡県神社誌の記載を抜粋します。

福岡県神社誌:上巻145頁
[社名(御祭神)]織幡神社(武内大臣、志賀大神、住吉大神、天照大神、宗像大神、香椎大神、八幡大神、壱岐真根子臣)
[社格]県社
[住所]宗像郡岬村大字鐘崎字鐘岬
[由緒](略)
[境内社(御祭神)]須賀神社(素盞嗚命)、稲葉神社(宇賀御魂神)、海原神社(和多津見神)、今宮神社(不詳)、御崎神社(埴安命)、白峯神社(顕仁命)、直日神社(大直日神)、高殿神社(応神天皇)、根岳神社(平家臣霊)
[摂社(御祭神)]葛原神社(武雄心命、顕姫命)、山神社(大山祇命)、大歳神社(保食神)
[末社(御祭神)]記載なし。
(2022.04.07訪問)

9月23日の日録

来ましたね。でっかいのが。やっぱり。

岸田首相がNY証取で演説、「確信もって日本に投資を」 為替介入にも言及 | ロイター (reuters.com)
演説後の質疑では、政府・日銀が22日に踏み切った為替介入について改めて説明した。首相は、為替は安定的に推移することが重要だが、最近の相場は「投機的な動きも背景とした急速で一方的な動きがみられる」と語った。
為替相場は市場で決定されるのが原則だが、「投機による為替の過度な変動が繰り返されることは決して見逃すことができない」と強調。引き続き為替相場の動向を高い緊張感をもって注視するとともに「過度な変動に対しては断固として必要な対応を取りたい」と述べた。

昨日、ちょうど神社めぐりをしていました。

円ドル相場の日足をみると、上にフタがあります。こまめにもぐらたたきやってるんだろうなとおもってドル買いをやめておいたのですが、昨日は145円まで上昇。

とうとう発動か?来る?来る?と、眺めていたら、来ました。

ネット情報では日本政府保有のドルを全額溶かせば15円動くという話がありましたので、戦術核あと2発分、余力を残しているということでしょうか(毎分10億円といううわさもありましたが、どうでしょうね?)。

Bフェット太郎が「ないないない」とあれだけ連呼してましたし、理屈でいえばそうなんでしょうが、それはないな、とはおもっていました。

むかし(逆方向ですが)民主党が為替介入に踏み切りました。

さいしょ、故藤井裕久先生はじめ「円がつよいのはいいこと」という理解でしたが、「わるい円高」キャンペーンを張られて内閣支持率低下、結果、介入に踏み切ります。A住とかいういまも立憲に居座っている輩の時代です。

で。このとき漏れ伝わってきたのは「わるい円高キャンペーンで支持率にあとがない。これでは選挙が戦えないので、役人をぶん殴ってやらせた」という話。むろん、民主党所属の政治家が地元で地元民向けにしゃべったことですから、リップサービスこみで誇張はいっているかもしれませんし、本当にぶん殴ったのかどうか知る由もありませんが、落選したくない政治家たちから相当な圧が上級官僚にかかっていたのは、間違いないでしょう。

大蔵省主計官から政界入りした藤井先生をはじめ「円がつよくて何が悪い」という理解だったし、どうみてもそれで動いていた(少なくとも経団連がこちらに屈するまでは放置)のが急転回でしたから、おどろきました。

水田三喜男 - Wikipedia

1971年8月20日の那須御用邸での昭和天皇への御進講において、水田大蔵大臣が「ニクソンショックに伴う円高によって日本が大変なことになっております」と申し上げたところ、昭和天皇から「円切り上げを国内では非常に暗いことのように言っているが、日本円の評価が国際的に高まり、いいことであると思う。そういう明るい面を国民に知らせる必要があるのではないか。円が高くなるということは日本人の価値が高くなるという意味ではないのか。」との御下問があった1931年11月に1ドルが2円だったものが、1932年11月には1ドルが5円にまで急激に円安になり、物価上昇で国民が苦しんだことを昭和天皇は経験していたからである。この御下問に水田は返答することができなかった。

要は当時、藤井先生をはじめこの発想だったわけです。

むろんこの例をひくと、民主党政権時、財界や経営中枢側にいたかたから「馬鹿を言え!当時いかに悲惨だったか知ってるだろ!」と反撃が来るでしょうが、まぁ、私を責めないでください(笑)

私は当時を思い出しつつ聞いた話をまとめているにすぎません。

問題は、内閣支持率が下がると、政権は迷走し、非合理的な選択も行うという点です。

 

今回も「わるい円安」キャンペーンで岸田文雄内閣の支持率が下がっています。ちょうど逆ですね。

輸入に頼る我が国の通貨価値がさがれば、一般庶民は苦しみます。

私もこの前まで257円で買えた「マルタイ棒ラーメンお徳用5食入」が327円になり、たいへん苦しんでいます。家計をあずかる主婦のかたは、もっとたいへんでしょう。おっさん独りだったら朝飯が棒ラーメンでも問題ありませんが……。

かりに焼け石に水であっても、戦う姿勢を示すだけで、テレビをぼーっと眺めている年金生活者のみなさまや自民党というだけで支持する統一教会やアベベ一派は「さすが自民党やるう!」となるわけです。すくなくともそれを「期待」して、今回の核兵器使用は行われました。

じっさい、yahooニュースのコメント欄をみると「投機筋と戦え!」みたいな勇ましいのが、あふれています。好意的です。

なんか、国家のカネつかって自民党と岸田文雄を延命しただけのような気もしますが、たぶんもっと深謀遠慮があるのでしょう。たぶん。きっと。

これ、私がふだん利用しているFX会社のスワップですが、1万ドルで119円まではねあがってます。誰がみても美味しいですね。だから世界中が円売りドル買いに走っているわけで、これを「投機筋」と悪者扱いって、どうなんでしょう?

岸田首相がNY証取で演説、「確信もって日本に投資を」 為替介入にも言及 | ロイター (reuters.com)

首相は「新しい資本主義」を米大リーグ・エンジェルスの大谷翔平選手になぞらえて言うと「成長」と「持続可能性」の二刀流だ、と説明。様々な社会課題を解決して成長のエンジンにしていくため、予算や税制、規制改革といったあらゆる政策を総動員すると語った。
近いうちに世界中の投資家から意見を聞く場を設けるなど、日本のコーポレートガバナンス改革を加速化し、さらに強化するとも述べた。
優先課題の一つに位置づけるGX(グリーントランスフォーメーション)では、2050年のカーボンニュートラル実現に向けて大きな変革に挑んでおり、日本経済復活の大きなチャンス、ブースターになるとアピールした。
国内で今後10年間で150兆円超のGX投資を実現するほか、原子力発電の問題に正面から取り組むと語った。

岸田のあたまがどうなっているのか私はわかりませんが、どうやら善人の「投資家」とわるい「投機家」が完全に白黒わかれているという発想のようで、なんと「投機と戦う」といいつつ「日本に投資を!」とアピールしています。

誰が買うか(笑)

かたほうで喧嘩売ってもうかたほうで「仲良くしようぜ」って。子供でもやらんわ。あほたれ。

日本人ですらS&P500一本やりでOKと主張されているブロガーさん、いっぱいですよ?

自民党と岸田、どうすんの?外国に投資する奴はぜんぶ国賊にするの?

源泉徴収する税率、国内株・外国株・Jリート・海外リート、対象ごとに変えますか?

だめです。おなかよじれます(^▽^)はらいてー。

 

おそらく、以下はあくまでもただの推測ですが、

  1. 現在モグラたたき中のラインが核兵器投下するかどうかの分かれ道っぽい。
  2. なるべく上に来たら損切り。もしくは微利で欲出さず利確。
  3. 弾が尽きるころには、インフレ退治が終了してFRBの利下げがはじまり、円高に自然に振れてくる(そうなってほしい!じゃないと純金積み立て再開むり!)。

でしょうね。まったく外国のニュースサイト追わず、チャートみた印象だけで書いてますが。

 

この状況、私より年配のかたは、うすうす勘づいておられると思いますが、まさに小鼠不純一郎引退後の状況そっくりです。あのときも、選挙で戦えないからと1年単位で足を引っ張りあい(とすると国葬で岸田下野か?)、とうとう自民党下野に至りました。

幸か不幸か、野党に軍師もいなければ、ろくな与党経験者もいませんから、あとはもう、清和会から新党ごっこで割れて飛び出してきて、政界再編という、どっかでみたシナリオがもう一回、あるかどうかですね(新生党というのがむかしありまして)。

もっともカネに汚かった連中(田中派のなかの田中派)が、なぜか政界浄化のキーマンに踊り出た、摩訶不思議な事件の再来が、いちばんあり得るかな……。

そして統一教会と、どうせ乗り換えてくる某D作党の支配はつづくのです。

脳裏に「せーんろはつづくーよー。どーこまっでっもー」と歌が流れていますが、気のせいでしょう。たぶん。

今日の運動経路(路地裏こそ偉大な神社がある編)

22日、18時に日記をセットしたあと、小倉駅前の「餃子の王将」で味噌ラーメンをいただきました。お客さん満杯で餃子が間に合わず、味噌ラーメンのスープ以外ぜんぶ食った頃に、餃子到着です。

餃子を味噌ラーメンのスープにつけて、水餃子みたいにしていただきました。周囲から見ると、kitty-guyにしかみえなかったと思います。

それから事務所にもどって雑用をやり、帰宅したら23時過ぎ。

寝て。起きて。痛風の薬と、棒ラーメンをいただいて。23日は福岡市内の現場でした。

家で「神社めぐり」の文章作成なんてはじめて、電車乗り遅れたら大笑いです。予定は昼からなのに午前中から家をでて(家に居て「神社めぐり」や日記作成に熱中しだすと時間がわからず危険きわまりない)、福岡市内にでました。

今川西町公園前」バス停で下車します。

今日の1社目は「平野神社」です。京都に平野神社がありますが、こちらは幕末の志士平野國臣を祀る神社です。

榊立てに彫られた紋章はどうみても角切三紋で、平野家って三嶋大社とかと関連がある氏族だったのですかね……。

つづいては西町観音です。

ここは、黒田長政公が朝鮮出兵で分捕ってきた日本に持ち帰った十一面観音様と文殊菩薩様が祀られており、中央の阿弥陀如来は聖徳太子御作との伝承があります。

この次の鳥飼八幡宮にともに祀られていたのですが、明治の廃仏毀釈のさい、べつに移設されました。

鳥飼八幡宮です。地元では有名どころです。

現在社殿建て替え中で、仮殿が設けられていました。どこのデザイン事務所がかかわっているのかわかりませんが、びっくりするくらい垢ぬけています。

鳥飼八幡宮 丨 遷宮 (hachimansama.jp)

こういうことになるそうです。実物できてみないと、なんとも……。

建設中の境内をあとにして……、

地行 - Wikipedia

1709年(宝永6年)貝原益軒が著した地誌『筑前国続風土記』には、筑前国に入った黒田長政が、不毛の砂地だった荒戸から室見川河口の辺りに防潮目的で松を植えさせて松原を造らせた。このうち、唐人町西側の松林が慶安年間・黒田藩二代目藩主黒田忠之の時代に足軽の屋敷町となり、新たに土地を開いて宅地を造成することを意味する「地形」(じぎょう)と名付けられた、と書かれている。それがいつの頃からか「地行」と改められたという。

地行(じぎょう)のあたりは足軽の屋敷町とされていますが、塩田開発も行われており、また、漁師町としても機能していたと推測されます。

「正一位五穀大明神」の鳥居があります。

今回のハイライトは、ここでした。

近づいただけで濃厚な香りがします。安い線香、とくに寺社がケチってつかわせる杉線香ではありません。まさかとは思いますが、沈香やムスクのにおいがします。上等の焼香です。

祠の装飾、ほとんどはげかけているものの鶴も美しい。これが繁華街裏手の路地にあるのです。

台座も傷んでいるもの、立派。ちゃんとした足になっています。

背後は仏堂です。

すっかりすすけて真っ黒になっていますし、どれがなんの仏様なのかもわかりませんが、とにかく雰囲気がただごとではありません。

これだけ濃厚なよい香りが建物や仏像からしているのに、目の前にあるのが「毎*香」……。

樋井川の向こうに、福岡タワーがみえます。

中共の総領事館です。交差点の反対側でiPhone構えて撮影していたのですが、交差点の反対側から建物を見た瞬間、警備員が注目します。iPhoneで撮影し終えると、まだこっちをガン見中でした。すごいですね。さすが敵国内の拠点だけあって警戒が行き届いています。

振り返ると、今日最後の松山稲荷神社がみえます。

googleマップの案内するとおりに歩くと、どうも駐車場を横切る?

西鉄さま大変失礼しました。これからも電車もバスも利用させていただきます。駅のやりうどんでちゃんと肉うどん注文しますので、どうか今日は見逃してください。この場を借りてお詫びいたします。

googleマップ、どうやって経路計算してるんだろ?

あとでOCRで文字起こししますが、ここ、九州最古のお稲荷さんと案内板にあります。伏見稲荷直轄とも。

1.5km、約1時間の散歩でした。

今回、相手さんに直接向かうこともあり、この松山稲荷神社でGPSログの取得をやめました。

福岡市早良区西新2丁目 杉山稲荷神社 - 美風庵だより (hatenadiary.jp)

2年前に訪問した杉山稲荷神社の鳥居がみえ、寄ろうかどうか迷い、通り過ぎようとしたら、雨が降ります。

前回は本殿にブルーシートがかかっており、よくわからなかったのですが、本殿裏手にもお稲荷さんがおられます。あらためて画像差し替えますから、と言って境内を出たら、雨はほとんど小降りになりました。

立ち寄れ、ということだったのでしょう。たぶん。

ディープエルってすごい(^^♪

しびきせ祭

毎年十二月十五日に安徳帝を偲ぶ祭と農村の収穫儀礼行事を合わせた祭として「しびきせ祭」が行われる。
寿永四年(一一八五)に壇之浦で入水されたと伝えられる安徳天皇は、平氏の公卿方に伴われて門司の田の浦へ上陸、松ヶ江を越え長野城主を頼られ二、三ヶ月隠れておられたが、城主が亡くなったので英彦山に向って城を出られたという。横代を通り隠蓑(当時は城野村)まで来られたとき村は名もなき庵寺の屋根葺替えの最中であった。源氏の追っ手が迫ってくるのを知った村人は同情申し上げ有り合せの茅や藁などの蓑を持って天皇を御隠し申し、上から藁しび等を着せかけ気付かれぬようにし、それにより天皇御一行は逃れることができたといわれている。
祭行事では神主が御祓したあと、その年の年少者を安徳天皇に見立てて藁しびをかぶせて子供の災難を除き無事成長を祈る。その際、握りこぶ大の安徳天皇の御姿や御靴型を納めたすぼを御供えし、祭りが終わると氏子達がそれぞれを持ち帰る。春には、先帝祭というおこもりも行われている。
北九州市

Shibikise Festival
The shibikise Festival is held every year on December 15 to keep the memory of the Emperor Antoku alive and also as a harvest festival in the farm village of Kakuremino. The child Emperor Antoku, who it is said was drown at Dannoura in 1185, arrived at Tanoura in Moji with the court nobles of the Heike Clan. They went by way of Matsugae to take refuge with the Lord Nagano. They hid in his castle for 2 or 3 months. But upon the death of the lord, they fled to Hikosan. They traveled through Yokoshiro and when they arrived in the village of Kakuremino (then called Jono Village), the villagers were in the middle of rethatching the local Buddhist hermitage. The villagers took pity on the emperor and hid him from the pursuing Genji Clan by covering him with a cape made of straw and on top of that piling old straw from the straw decorations (called shibi) off of the old roof of the hermitage. By doing this, the emperor was able to escape from his pursuers, it is said.
In the village, after the Shinto priest purifies the area, the smallest child is chosen to represent the Emperor Antoku and straw for roofing is thrown on this child and other children and prayers are offered for the children to keep bat luck away and so that they will grow up safely.Them straw wrappers in which small figurines of Antoku and models of shoes made from rice cakes are placed, are offered in prayer at the shrine. After the festival,parishioners of that shrine each take home one of the straw packages.
In spring, the Senteisai Festival is held to pray for Antoku.

googleレンズの無料OCRで読み込んだ結果を、まいどおなじみ「ディープエル翻訳」にかけた結果は以下のとおり。

しびきせ祭り
毎年12月15日、安徳天皇を偲び、また農村の収穫祭として行われるのが「しびきせ祭り」です。1185年、壇ノ浦で溺死したとされる幼少の安徳天皇は、平家の公達とともに門司の田ノ浦に到着した。そして、松ヶ枝を経て長野城に避難した。2~3ヶ月間、長野城に身を寄せた。しかし、長野氏の死後、彦山に逃れた。横代を経てカクレミノ村(当時は城野村)に着くと、村人たちは仏堂の葺き替えの真っ最中であった。村人たちは天皇を憐れみ、追いかけてくる源氏から隠すために、藁で作った頭巾をかけ、その上に仏堂の古い屋根の藁飾り(シビと呼ぶ)の古藁を積み重ねたのである。こうすることで、天皇は追っ手から逃れることができたと言われている。
村では、神主がお祓いをした後、一番小さな子供を安徳天皇に見立てて、その子供や他の子供に屋根用の藁を投げつけ、厄除けや子供の無事な成長を祈願する。祭りの後、氏子たちはその藁苞を一つずつ持ち帰る。
春には、安徳を祈る先帝祭が行われる。

地名がいくつか違う漢字になっていたのを、他の選択肢から選んだだけで、文面そのものはいじってません。すごいですね。読めます。つか、和文よりこっちのほうが読みやすい……。