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鳥居には瀑布宮とありますが、地元では首渕(つぶろぶち)・蛇渕(じゃぶち・へびぶち)という呼び名が一般的です。
高校時代、従兄と釣りに来て、途中から水遊びとなり、飛び込んで片足が抜けなくなった思い出の地です。底に砂が溜まっており、必死で這い上がりました。
あれ以来寄り付かず、気づくと30年経ちました。
首渕(つぶろぶち)のそばに祀られる女神さま 福岡県嘉麻市桑野 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ
今回、上記の記事を発見し、思い切って訪ねてみた次第です。
首渕(つぶろぶち)という名の由来については、昭和58年発行の「嘉穂町誌」では、上流に城があり、首切り場があったことに由来する、という説を紹介しています。この城があった場所というのが、上記地図で言えば、赤丸のところです。
詳細不明。馬見城主毛利鎮実の家臣毛利三七兵衛の城と伝えられる。
これは大友勢、つまり大友氏の郎党の出城です。たしか「花???城」と言った名前だったと思い調べてみると、「花尾城」とありました。インターネットの世界って、すごいですね……。
もう一つは、ナゴンバル(納言原)という古戦場に由来するのではないか、というものでした。地図で言うと「桑野」と「倉谷」をむすぶ破線が、現国道の旧道にあたり、文字を私が書き加えた辺りの小字がナゴンバルです。戦国時代、秋月勢と大友勢が戦をして、高位の役人(納言)が見分(戦後の視察)に来たことを示すという言い伝えがあります。死んだ敵方の兵士の首を捨てたから首渕ではないか、というのです。
現在もこの破線の道が通れるのかどうかはわかりません。まだ私が子供の頃は、林業関係者が人工林を切り出すための道として整備していたおかげで、通ることができました。釣りざおを持って川釣りに行くとき、短絡路としてとても便利だったのでよく通っていましたが、とにかく地元の老人からは「祟る!暗くなってあそこはとおるな!」と説教されたものです。
地図で言えば右下、山瀬川集落に、祠があります。深手を負った侍さん3人が介抱むなしく臨終となり、いまわのきわに「この御恩に報いて私たちは末代々まで皆様をお守りいたします」と言ってこと切れたとか。
私が子供の頃、この祠が改築されました。たしか学校改築(この集落には小学校の分校があったのです)の際、運動場を拡張する工事でずらす必要があったと記憶しています。拡張工事で井戸が枯れ、その代替井戸を掘るためにずらしたのだったかもしれません。
その法要にやったきた坊さんがさらりと見てきたように言うため(何百年も前のことを何故この人はわかるのか。どうみても祖父より年下なのだが?ずっと生きているのかこのおっさん)と恐ろしくなったので、記憶に在ります。坊さんが当てずっぽうで言うとも思えず、霊能者のうさんくさい発言にしては出来ており、やはりそういう伝承があるのでしょう。
大友勢の出城があってその首切り場があったとしても、古戦場に由来するとしても、あまり気持ちの良い話ではありません。
私が子供の頃は明治生まれの方々が生きておられたのですが、首渕(つぶろぶち)というより、蛇渕(じゃぶち)と言ったほう(言い換えたほう)が老人達にはとおりが良かった記憶があります。
この首渕には、雨ごいの儀式で酒を注ぎ入れたとき、神様が聞き届け下さるなら蛇が現れるという言い伝えもあって、文化や伝承的なものはともかく、地元民には「蛇渕」だったのです。
するとこの石祠に市杵嶋姫命が祀られているという伝承も、なんとなく理解できます。市杵嶋姫命の生まれ変わりが弁財天とされていましたし、弁財天の神使は、蛇です。
石祠には宝暦の文字があり、1751年から1764年のあいだに奉納されたものだとわかります。そしてその鳥居は「瀑布宮」。元々は、この滝に住む水神様を祀っていたのでしょう。明治になり、神仏分離という明治政府による文化破壊活動により、どんな祭祀も既存の神様にあてはめる必要があったため、蛇の言い伝えから、市杵嶋姫命を充てたのではないか、今にしてみれば、そう考えるのです。
むかしはもっと薄暗い場所だった記憶があります。どうしてこうも明るいのだろう?と見上げると、そばには付け替えた現国道が通っています。これが明るさの原因のようです。
福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.05.04訪問)