松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

久留米市山川野口町 天満神社(野口天満神社)


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福岡県神社誌にはほとんど記載がないため知らなかったのですが、現地を訪問すると、なんと木瓜紋の天満宮です。キツネにつままれている気分、いや、これ、玉垂宮ではないですか。なんで天満宮になった?

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もうこの案内板を見て驚かないひとは居ないでしょう。

元は高良玉垂命の子 朝日豊盛命の子孫である神代氏が、自らの祖先を祭祀するためにつくった地主宮なのです。それが明治になり天満宮と合体し、天満宮のほうが正式名称となってしまいます。

神代勝利 - Wikipedia

神代氏は、武内宿禰の後裔とされ、高良大社の大宮司である物部氏から分かれた、かつては熊代と書いたのを神代に改め、高良大社の大宮司を務めた名族。父の代に没落し、肥前の千布村に流れ着いた。幼い頃は、千葉興常に養われる。

武家家伝_神代氏

神代という名は、神功皇后遠征のとき、武内宿禰の武略知謀が神の如き働きをしたので、皇后は「神の代わり」との意味で「神代」の二字を授けたと伝える。その読み方は「くましろ」だが、昔は熊代と書いたのを後に神代に変えたという。
神代氏は代々、筑後一宮の高良神社に奉仕してきたが、文治元年(1185)、神代良光のころ、高良山から北へ二キロ、筑後川左岸の神代村に館を建てて移住し武士化していった。神代村は、筑後川筋における太宰府と筑後を結ぶ交通の要衝であり、神代氏はこの「神代渡し」の通行権を管理していたといわれ、戦国末期の島津氏の記録にも「隈代の渡」として記されている。
応仁の乱(1467)後、天下は大いに乱れて下剋上の世となり、高良神社も武将たちの戦勝祈願が行われるなど、戦乱の渦中に巻き込まれていった。そのころ、神代の周辺では蒲池・草野・西牟田ら筑後の有力国人たちが割拠し、弱小勢力である神代対馬守宗元は、彼等の勢力に対抗できず神代の地を去って肥前に落ちていった。
肥前に移住した神代宗元は上佐賀の千布村に住し、その子勝利の代に至って肥前国に確固たる勢力を築くようになる。武勇と知謀に恵まれた勝利は、少弐氏に属して山内に勢力を培い、一躍肥前の有力武将に成長した。

この記述を信ずれば、この地を治めた神代氏は、現在の佐賀市金立町千布に落ち延びたことになり、支配者が逃げて行った後々まで、地元民は支配者の祖先を祀るつもりはなかったのかもしれません。

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ここでいう「女神」とは、神功皇后のことだと容易に推測できます。右が若宮八幡こと仁徳天皇であれば、中央はほんらい、玉垂命が座っていた場所です。それが菅公に取り替えられています。神代氏の御先祖様だけ取り除かれているのに、いまだに「木瓜紋」は残っている、ほんとうに不思議な神社です。

やはり神社めぐりは、まず現地に足を運ぶべきですね。つくづくそう感じました。

福岡県神社誌:下巻420頁
[社名(御祭神)]天満神社(菅原神)
[社格]無格社
[住所]三井郡山川村大字山川字野口
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.04.24訪問)

9月18日の日録

昨夜はなかなかの強風でした。

朝5時過ぎに起床し、いつものように日経電子版と東洋経済のチェック、メールチェックを済ませて鉢植えを元の位置に戻します。

今日は学校の電気工事だったため、7時半に家を出てその立会に行きました。現地立会が終わったらそのまま「白坂越え」の取材に行くつもりです。服装は自転車に乗る際の格好とし、折りたたみ自転車を車の後ろに積んで、学校に向かいます。

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立会を終え、八丁トンネルを越えて、JR天道駅に駐車しました。八丁トンネルをすぎると、なんと雨が降っています。天気予報は曇りだったのに……。折りたたみ自転車はドロヨケを装備していませんから、水たまりを走るとそのまま背中にひっかかってしまいます。嫌らしいことに汚れ放題です。

しかもタイヤはセミスリックですから、坂道でブレーキをかけると、滑ります。これも嫌ですね……。

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Google マップ

パラつく雨のなか、飯塚市天道の「川艜船荷役場」を訪問しました。

ここから桂川町の桂川郵便局まで旧道を往復し、途中の痕跡をたどります。

いちど車をとりにJR天道駅まで戻り、今度は、桂川町役場の隅に駐車させてもらい、土居の老松神社に立ち寄ってから、弥山岳のふもとまで、旧道の痕跡を探しました。

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桂川町土居の老松神社は、「神社めぐり」で取り上げたいと思います。

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地理院地図を参考に、弥山岳を越えて飯塚市弥山に向かう経路ではないかと見当をつけたうちのひとつまで近づいてみたところ、荒れ放題でした。

さすがに大正時代の地図に載っている道が、完全に埋もれてしまっているとは考えにくく、鎌の手入れをされていた年配のかたにお伺いしたところ、貴重な話を伺うことができました。

次回、やっと全線踏破が見えてきました。うまくいくといいのですが……。

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今回の走行距離は、往復で13kmほどでした。

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帰路、ペプシコーラの自販機をみかけてコーラで休憩しました。

雨でずぶ濡れのおっさんが店先にどん座ってコーラで休憩しているさまは、異様だったらしく、お店のかたが声掛けをしてくださいました。古代史マニアで現在、白坂越えについて調べている旨を伝えると「私も話に聞いた程度で自分で登ったことはありません」「車が通れないのでそうそうに廃れた」「「かごたて峠」というところがある。元は参勤交代の道と聞いている」とのこと。

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甘木に帰着後、泥だらけになった折りたたみ自転車を洗いました。チェーン駆動部に水がかからぬよう、丁寧に洗わないといけないが少々面倒でした。

詳しくは、「白坂越えを歩く(4)」としてまとめたいと思います。

さすがにすぐ文章作成にとりかかる気力がなく、涼しくなるまで昼寝して過ごしました。

約2か月かかりの企画でしたが、なんとかめぼしいところはすべて拾えそうです。

しかし、後に残ったのは登山、しかも経路不明の藪こぎとは……トホホ。

久留米市山川神代2丁目 御堂と猿田彦碑


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神代の天満神社の近くに、御堂と猿田彦の石碑が集められた一画がありました。

どうやらお大師さまのようなのですが、敷地に様々な植物が植えられ、簡単にはのぞけないようになっています。この一画は、神社の敷地の延長なのか、それとも、別の祭祀なのか。どうもよく分かりませんでしたが、とりあえず画像を撮影しておきました。

(2021.04.24訪問)

久留米市山川神代3丁目 天満神社(天満宮)


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現地案内板によれば、菅公が沐浴された跡地に建てられた天満宮であるとのことです。

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このぐらい由来がはっきりしていれば、天神社をのちに上書きした天満宮ではないと仮定して考えてもよさそうです。

ただ、案内板で気になるのは、明暦3年、つまり1657年の建立であるという点です。菅公が生きていた時代からだいぶ下っており、村に伝わる伝承をもとに、あらためて産土神として菅公を祀ったのか、天満自在天神として有名になったため菅公を祀ることにしたのか、その点は疑問として残ります。

福岡県神社誌:中巻181頁
[社名(御祭神)]天満神社(菅原神)
[社格]村社
[住所]三井郡山川村大字山川字渡屋敷
[境内社(御祭神)]水神社
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2021.04.24訪問)