松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

白坂越えを歩く(2)

最初は過去の投稿を削除し全面的に書き直す予定でしたが、まずは調べた範囲を公開し、後日、すべてまわったうえで再編集することにしました(総集編ってやつですね)。

白坂越えはどこを指すのか。

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大日本郡分地図 : ポッケット入最新調査. 福岡県の部 - 国立国会図書館デジタルコレクション

先日、白坂越えについて書いたところ、経路が違うのではないかと指摘をいただきました。

その後も資料をながめたり詳しそうなかたにお話を聞いたりしていくと、どうやら「秋月街道」とされた公式経路と、年貢米の搬送経路が別にあったことに気づきました。

それをまとめたのが上記の図です。「秋月街道」とあるのを奇異に感じるかたも居るかもしれません。秋月街道とは、小倉から香春、大隈、千手を抜けて秋月に至る道ではないのか?と。ところが資料を読むと、飯塚市の天道や桂川から秋月に至る道は、秋月街道として出てくるのです。

おそらく、黒田領であった飯塚市の天道や桂川側からみれば、秋月に至る道といった意味で「秋月街道」と記していたのかもしれません。

ただ秋月藩領内では目的地が違いますから、秋月街道と白坂越えを分けて呼ぶ必要がありました。白坂越えとは、いまの県道66号の白坂峠を経由して古処山地の南北をむすぶ道であったと、ひろく解釈したほうが、実態に沿うのかもしれません。

八反田舟入場から内山田までを調べてみる。

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今回は、年貢米搬送経路を折りたたみ自転車と車で調べてみました。GPSで記録した自転車の走行経路のうえに、太い青線で描いたのが、八反田舟入場から旧泉河内小学校の横を通り、君ヶ畑に向かう経路です。

八反田舟入場

「道の駅うすい」に駐車させてもらい、折りたたみ自転車を組み立てて、まず、八反田舟入場から、白坂越えを探る旅をはじめました。

その他の文化遺産(未指定文化財) - 嘉麻市ホームページ

八反田舟入場跡(秋月藩の米積出し場)
江戸時代に秋月黒田藩の領地となった上臼井地区には、年貢米を大阪の市場に運び出すための秋月藩の蔵屋敷と舟入場が置かれていました。

(略)
舟入場の開設により、夜須方面の年貢米も峠を越えて持ち込まれるようになり、その数3万俵に及んだということです。

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むかし八反田舟入場があったとされる場所は、荷役のしやすい船着場を模したつくりになっていました。舗装されたりしていますので、おそらくは後世、むかしの船着場をイメージして改修したものでしょう。増水したときにも、川の水が少ないときにも船に取り付きやすいよう、石段で川のなかまで下りられるようになっています。この辺りは、むかしの記憶をとどめるために残されているのかもしれません。

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米蔵跡の水神社は、道も境内も雑草だらけでした。なんとかなかに入ることができました。

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鳥居もつたにからまれ、扁額を読むのがやっとです。旧碓井町時代につくられた舟入場の案内板も、つたにからまれて最初は読めませんでした。一本ずつ引っ張って引きちぎり、なんとか案内板を撮影することができました。

この案内板では、寛政7年(1795年)に舟入場が完成したとあります。秋月藩の藩屋敷は1689年に黒崎に移転していますから、ここから芦屋経由で黒崎まで船運で運び、黒崎湊から上方に運んだのでしょう。

芦屋から黒崎に藩屋敷を移転した理由はいろいろあるようですが、海流の関係で芦屋は使いづらく船乗りから嫌われていたという話もあります。黒崎湊から洞海湾を抜けて瀬戸内海に入るほうが、はるかに安全だったということでしょうか。

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江川 (福岡県) - Wikipedia

東は洞海湾に注ぎ、西は遠賀川河口に合流する感潮河川である。全区間で潮位の影響を受ける。 人工開削による運河ではなく、元々は洞海湾と響灘を結ぶ海峡であった事から、水源の無い両側に河口があるという珍しい河川となった。江戸時代、堀川が開削されるまでは、筑豊炭田で産出した石炭が「川ひらた」または「五平太船」と呼ばれる船で運搬されていた。 

また、芦屋から黒崎は、川でつながっています。遠賀川からの水運があった点も、大きかったと思われます。

八反田舟入場~嘉麻市九郎原

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八反田舟入場から、まずは嘉麻市立碓井小学校や妙見橋の辺りで千手川に合流する地点までを目指します。

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米軍が1947年に撮影した航空写真と地図を見比べ、おそらく日吉神社前を通っていたものと見当をつけました。途中で右折し、県道を横切ります。

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集落内の路地を進んでいきます。離合も困難な道ですが、むかしはこれがメインストリートだったのでしょう。

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嘉麻市立碓井図書館や織田廣喜美術館を横目に見ながら、直進します。この道は、1947年の航空写真でも真っ直ぐ伸びており、メインストリート扱いだったことがわかります。

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妙見橋が見えてきました。右横は千手川です。川に合流することが出来ました。

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妙見橋の辺りまでくるとそこそこ川幅も広く、ここから船運が使えたようにも思えるのですが、これより上流は蛇行がひどく、さすがに無理だったろうと思えてしまいます。

碓井小学校と千手川にはさまれた市道?を自転車で進んでいきます。右はどうやら小学校の実習田のようです。

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千手川の甌穴群 - 嘉麻市ホームページ

甌穴とは、河底や河岸にできる円形の穴で、「ポットホール」とも呼ばれます。
千手川が大きく蛇行する上臼井地区には、2、3mの厚さの砂岩に、大小50基を超える甌穴が分布しています。
これらの甌穴群は、現在も発達を止めておらず、中には、直径1m、深さ2.5mにまで達する例もあります。
現在、千手川の甌穴群は、江戸時代の文献に残る「末永石地区」、「はなぐり石地区」の2箇所が福岡県の天然記念物に指定されています。

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ほんの数分走ったら、さきほどとはうって変わって川は蛇行し、一部はほぼ直角に曲がっています。ちょっと上流に来ただけでこうも違うのかと驚きます。

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赤松尾ため池側に向かう道との交差点に出ました。

今回の最難関は、じつはここでした。

古い航空写真などをだいぶ眺めたのですが、ここから九郎原につながる経路がわからないのです。おそらくここで橋をいったん渡り、千手川沿いを九郎原に向かっているのだろうとおぼろげに見当はつくのですが、もっと下流側に橋が架かっていたようにも見えます。

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地図や航空写真を見返しながらしばらく思案していると、かまバス(市営のコミュニティバス)がやってきました。これ、てっきり系統ごとにカラフルな色遣いをしているのかと思っていたら、どのバスもぜんぶ赤です。

ああ、「あ」「かまバス」、「赤」「まバス」。

なるほど、現職市長の名前を、市内を走り回って市民に広告宣伝しているわけですね。公職選挙法には引っ掛かりませんし、うまいこと考えましたね……。

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そんな冗談は置いとくとして、おそらくこの砂利道が古い街道の名残に思えます。間違っているかもしれませんので、控えめに掲載しておきます。

砂利道を通るとタイヤが傷みますので、折りたたみ自転車は県道に出て、九郎原を目指します。

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県道413号にかかる九郎原橋の手前で左折すると、嘉麻市九郎原地区に入ります。

旧九郎原バス停
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軽トラが停まっているあたりは、むかし西鉄バスの転回場でした。2004年3月まで、ここに「九郎原」バス停があり、飯塚から天道駅を経由して一日数本、ここまで西鉄バスがやって来ていました。

この路線は今は亡き大隈営業所の担当だったのですが、一本だけ、飯塚営業所の便があったはずです。飯塚バスセンターから稲築経由で大隈に向かう始発便がそれで、大隈経由で大力(千手)行きのバスとなり、大力から九郎原まで回送?して、九郎原から碓井・天道駅を経由して飯塚営業所に戻っていました。

細い路地をうまく丁字路のように使って、バスを待機させる姿は運転手さんのテクニックに感心したものです。

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https://aucfree.com/items/k368904842

26:九郎原

インターネットになにか当時の画像はないか探したのですが、このくらいしか探し当てることができませんでした。

九郎原~嘉穂才田

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バス停の先で右折し、九郎原の集落内に入ります。

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嘉麻市九郎原 愛嶽神社 - 美風庵だより

平坦な道のりで数分もせず愛嶽神社の前にたどり着きました。そのまま嘉穂才田地区の枝国集落に向かいます。

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これまた2,3分ほどで枝国公民館前に到着です。

ここで、どうやら道を間違えていることに気づきました。このままだと長谷山方面に行ってしまいます。それに、県道のほうへ戻ろうとすれば、坂があります。敢えて坂を越える経路を設定するでしょうか?

地図とにらめっこするのですが、いまの地理院地図をいくら眺めても、手前で道の分かれている場所はありません。

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ただ、古い地図と航空写真からだと、赤線から青線に行けるはずなのです。

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引き返してよく見ると、なんと洗い越しがあるではありませんか。

すでにほかの道が整備されて誰もつかわなくなってしまい、一部は個人の土地になってしまっているようです。

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さすがに洗い越しを自転車で渡るわけにはいきませんので、ちゃんと舗装された道まで引き返し、内山田方面を目指します。

しばらく走って車を取りに行くのが面倒になると考え直し、いったん引き返すことにしました。

桂川町内山田地区周辺

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「道の駅うすい」の駐車場まで車をとりに戻り、折りたたみ自転車を積み込んだあと、昼食をとって、桂川町の内山田公民館に向かいました。

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ここはむかし、西鉄バスの「内山田」バス停があったところです。

25:内山田

ちょうど車を停めさせてもらっているところにバス停が立っており、公民館の裏手から右折して進入し、ぐるりと回って乗降させ、今度は県道から左折して飯塚に戻っていました。

いまは桂川町のコミュニティバスのバス停が立っています。このバス停の立ち位置だと、おそらく交差点で右折して乗降扱いしているのでしょう。ちょうど逆回りということになります。

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https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=166081

この場所は戦後大幅に道が整理されています。1947年(昭和22年)の米軍撮影の航空写真と見比べればわかりますが、県道がクロスする内山田交差点がありません。

しかも、いまだと真っ直ぐ伸びている道が、なぜかXに交差しています。これはいったい……。

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九郎原地区や泉河内地区に親戚が居るうえに、前の仕事場時代はほぼ毎日通っていたくせに考えもしませんでしたが、自転車で該当する部分にたどり着いてみると、理由がわかります。高さを稼ぐために、つづら折りになっているではありませんか。

現代のようにエンジンの馬力で坂道をよじ登れる時代ではありません。つづら折りで距離は伸びても、傾斜を緩やかにしていたのです。

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旧道のつけ根の辺りから、坂を登りきり迎原集落との分岐まで、おおよそ高度10mの違いがあります。鉄筋の建物で3階建て相当です。なかなかきついものがあります。

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車の離合ができるように拡幅された現道と、古い道がXの形状で交差しているのがわかります。君ヶ畑に向かう道と、内山田を経由して弥山に向かう道が、ここで分かれていました。

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泉河内川にかかる迎原橋を渡ると、内山田の集落に入ります。

集落を抜ければ、左手に車を停めさせてもらっていた内山田公民館が見えます。

複雑な道は、架橋する技術がなかったから?

おそらく今回の肝は、内山田地区の道が、いかに戦後整理されたかという点でしょう。

いまは内山田交差点でクロスし、そこに道が集約され各地に向かうようになっています。しかし、むかしはそうではありませんでした。

(1)八反田舟入場から九郎原・才田を経由して、君ヶ畑に向かう道

(2)(1)と迎原の手前で分かれ、内山田集落を横切り弥山へ向かう道

(3)泉河内から内山田を経由して桂川・土師へ向かう道

と、各方面への道が複数伸びていた理由は、おそらくは蛇行する泉河内川に上手に架橋する技術がなかったからではないか?という気がします。

大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 住吉大社


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「日本三大住吉」のひとつとされ、以前から一度は訪問してみたいと考えていた神社です。

住吉大社

住吉大社 - Wikipedia

住吉大社

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全国各地の神社について記載があるホームページ「玄松子の記憶」では、公式見解の御祭神と、各種文書に残る御祭神の対比を行っています。住吉の神とは誰なのか、ずいぶんと混乱があるのがわかります。

高良玉垂宮神秘書同紙背 (1972年)

この日記では高良大社が約50年前に刊行した高良玉垂命神秘書同紙背をベースに考えていきます。まず、山幸彦(饒速日:にぎはやひ、五十猛命、猿田彦)の子 初代住吉大明神こと鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)が居ます。その彼の実子と有力部下が5人居て、うち男子3人は住吉三神と呼ばれました。表筒男尊は、鵜葺草葺不合命の実子 安曇磯良(あずみのいそら)。中筒男尊は現王朝の祖 崇神天皇。底筒男尊は 藤大臣阿部相凾(あべのしょうかん)彼はのちに高良玉垂命として九州王朝の天皇となります。

少童三神(わだつみ)と呼ぶときは、鵜葺草葺不合命の実子3人(安曇磯良、豊姫、大海姫)を指します。合わせて住吉五神とも呼ばれます。

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玉垂宮神秘書が記載した住吉五神が頭に入っていると、この境内案内図をみれば、さきほどの「玄松子の記憶」に掲載された御祭神の食い違いがなぜ起きるか、気づきます。

「神代記」の解釈だと、足仲彦(仲哀天皇)の死去後、神功皇后は玉垂命の妃となった点を重視し、夫婦が第3宮と第4宮に並んで祀られていることになります。

三養基郡みやき町白壁 千栗八幡宮 - 美風庵だより

「神別記」「二十二社註式」で、底筒男尊・中筒男尊が併せ祀られているとしたのは、底筒男尊(玉垂命)の痕跡をなるべく薄めようとする意図があります。宇佐や湍津姫(田霧比咩)が登場してくるのは、宇佐神宮に都合が良いよう、歴史が書き換えられた時期があったことの痕跡なのです。また、玉垂命の子であり九州王朝最後の天皇 仁徳天皇につながる系譜への、現王朝の祖である天之忍穂耳-大山咋-崇神天皇-応神天皇ラインによる背乗りの記録と考えてもよさそうです。

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ここまで理解したうえで再度境内案内図をみると、なんと「花菱紋」が御神紋につかわれています。

筑後国一の宮 高良大社:公式ウエブ

玉垂命を祀る久留米の高良大社ですら、現王朝にはばかって一歩引き「花菱紋」を使わず、周りを囲んだ「木瓜紋」にしています。実質的には玉垂宮でありながら、現王朝との関係を考慮して住吉大社とした代わりに、御神紋では譲らなかったわけです。

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以上を頭に入れて、社頭の案内板を読み返すと、じつに興味深いものがあります。

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ひろい境内では、結婚式が行われていました。社殿が4つあるため、どの角度から撮影すればよいか、あれこれ試しましたがうまく行きませんでした。

このあと別件があったのである程度のところで退出しましたが、自分が考えていたよりもはるかに、九州王朝の拠点であった痕跡がわかりやすく残っていました。

いずれ再訪して、もっとじっくり眺めてみたいものです。

(2021.04.09訪問)

 

9月12日の日録

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朝飯を食ったあと、冷凍保存用のごはんを炊きました。3合炊きの炊飯器で2合炊き、タッパーウェアに3等分して詰めておきます。これを2回やって6個つくると、数日分あります。

食べるときは前もって冷凍庫から冷蔵庫にうつして解凍し、電子レンジで加熱するか、お湯を注ぎます。

基本的にはむかしから麦飯が多く、白飯は自宅ではまずやりません。割合は米2kgにたいして押し麦1kgです。あらかじめ混ぜておきます。曾祖父・祖父が軍隊帰りだったせいか異様なほど「麦飯信仰」がつよかったので、その影響かもしれません。

画像の炊飯器は2008年に甘木に引っ越してきたときに購入したもので、すでに13年目になりました。

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象印 炊飯器 3合 IH式 極め炊き 黒まる厚釜 一人暮らし 保温30時間 ステンレスブラウン NP-GJ05-XT

いちおう買い替えをねらってはいるのですが、なんと3合炊きのほうが高いのです。考えてしまいますね……。

というより、目下最大の問題は、洗濯機。こちらも引っ越してきたときに不動産屋が置いていった13年選手なのだが、どこか異臭がします。モーターの焦げる匂い?とでもいうべきものなのですが、最初からしていた気もするし……。

ES-S7F | 洗濯機:シャープ

孤独死予備軍独居中年としては、たぶんこのくらいのドラム式でお釣りがくるでしょう。

 

昨日、折りたたみ自転車を久しぶりに動かして、ちゃんと動くのを確認できました。今日は以前からの懸案だった、白坂越えの取材に行くことにしました。

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今回は2か所に車を停めさせてもらい、併せて11kmほど走りました。

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「道の駅うすい」の駐車場で折りたたみ自転車を組み立て、ここからまず八反田舟入場を目指します。

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八反田舟入場跡では、お爺さんとお孫さんが、釣り糸を垂れていました。二人が写らぬよう、全体を撮影します。江戸時代、ここから芦屋まで船運が行われていたのかと思うと、なかなか感慨深いものがあります。

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資料では、八反田舟入場と付属する秋月藩の米蔵跡地には水神社があるとされています。周囲を見渡すとほぼすべて雑草で覆いつくされた石祠と鳥居がありました。

 

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嘉麻市上臼井地区から九郎原地区をぬけ嘉穂才田地区まで走り、おそらく江戸時代にも多くのひとが通ったであろう経路をたどったあと、今度は桂川町内山田地区の内山田公民館に移動しました。ここから嘉麻市嘉穂才田地区の迎原集落と、桂川町内山田地区を折りたたみ自転車でまわり、廃道の痕跡を探しました。

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それにしても、折りたたみ自転車って本当に便利ですね……。

12日の内容は、「白坂越えを歩く 第2回」として明日掲載します。

 

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江井ヶ嶋酒造 ホワイトオーク 地ウイスキーあかし [ ウイスキー 日本 500ml ]

1軒寄り道してから、コスモスに立ち寄って帰宅しました。コスモスで買ったマルハのベビーハムを焼き、それをつまみにウィスキーの水割りを飲みながら、今日の日記と、「白坂越えを歩く」の2回目を書きたいと思います。

嘉麻市大力(西野) 天満神社


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ゼンリンばかりで神社を探していると、近場で見落とすことがあるものです。

今回は、嘉麻市大力地区西野集落にある天満神社を訪問してみました。

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西野集落の中心部にある「西野集会所」に車を停めさせてもらい、現地まで歩くことにしました。

じつはこの建物から先に足を進めたことがありません。

以前から集会所のはずなのに注連縄が年中張られているのには気づいていました。こういう場合、地元のお宮が寄り付きにくい場所にあることがほとんどです。もしかするととんでもない場所にあるのかもしれない、と思いつつ、地理院地図と「ヤマレコ」アプリを頼りに歩きます。

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ほんの数分で到着しました。拍子抜けするほど近くにあります。

画像では分かりにくいのですが、石段の踏み石が手前に向かって傾き、雨上がりということもあって、何度もすぺりこけそうになります。危ないことこの上ありません。集会所から遥拝するはずです……。

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足元をすべらせないよう気をつけながら登ると、社殿がありました。扁額には天満神社とあります。

御祭神に大己貴と少彦名命があり、つまり大国主と事代主を菅公が従えている構図です。どうも座りが良くありません。大国主の義父 大幡主を祀る天神社が、後年、皇室から「天満自在天神」の称号をうけた菅公により上書きされ、天満神社となったと考えられます。

画像を撮り損ねましたが、石段のところにある鳥居の扁額は「天神宮」となっていました。少なくともこの鳥居が奉納されるころまでは、菅公ではない「天神さま」の記憶が、地元に残っていたようです。

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本殿となる石祠の脇に、べつの祠があります。元の本殿でしょうか。

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さすがに踏板が傾いた石段をおりる気になれず境内を歩き回ると、ひと一人が歩ける坂道を見つけました。踏み跡がしっかりと残っているので、もしかするとこちらを地元のかたは利用しているのかもしれません。

福岡県神社誌:下巻404頁
[社名(御祭神)]天満神社(菅原神、大己貴命、少彦名命)
[社格]無格社
[住所]嘉穂郡千手村大字大力字ニシノ
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.04.04訪問)