松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

朝倉市甘水 岩村神社 再訪


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2月23日、旧稚児忘集落を訪問した際に再訪しました。社殿の隅に、大正14年(1925年)建立との棟木札がありました。まさかこの祠が大正時代の建築ということはないでしょうから、ふつうに考えれば、過去にここにあった社殿の棟木札ということになります。

気になるのは「安川村甘水深野中」とあること。つまり、この神社は深野集落が祀っている神社ということです。

朝倉市甘水 白木神社(北辰社) - 美風庵だより

甘水の深野集落というのは、北辰社(白木神社)のある辺りです。この神社は、いわば北辰社(白木神社)の奥の院的な性格のものだったのでしょうか。 

過去の訪問記録

朝倉市甘水 岩村神社 - 美風庵だより

2月23日の日録(稚児忘(ちごわすれ)登山 前編) - 美風庵だより

2月23日の日録(稚児忘(ちごわすれ)登山 後編) - 美風庵だより

福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.02.23訪問)

小郡市干潟 日方神社 再訪


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2月21日に、知人に持たせる土産を買いに行く途中、麓の花立集落にある日子神社から城山(花立山)に登りました。

城山(花立山)には、山頂が2つあり、それぞれに神社が建っています。小郡市(旧筑後国)側が日方神社で、筑前町(旧筑前国)側が愛宕神社です。

この日方神社は、彦山(英彦山)権現を江戸時代に勧請したものとされています。

小郡市干潟 阿蘇神社 - 美風庵だより

日方神社がある小郡市干潟地区には阿蘇神社があります。英彦山に君臨した天之忍穂耳が熊襲の出身であることと併せて考えると、この地はどうやら熊襲の一大拠点であったようなのです。
……と、ここまで考えてみると、「干潟:ひかた」ではなく「日方」なのが気になります。

小郡市山隈 日子神社 - 美風庵だより

麓の日子神社には、英彦山がまだ「日子山」だった時代に勧請されたものという伝承があります。天照大神卑弥呼)と高木大神(高皇産霊神)の入り婿である天之忍穂耳が、日の子、つまりいまふうに言えば「天子」だったわけです。
すると、日方とは「天之忍穂耳・天照大神・高木大神側を支持する立場」ということになります。
 
「味方」という単語があります。辞書で調べればわかりますが、元は「御方:みかた」であり「方」は「わがほう:わが方」という意味です。

日方があれば、その反対もなければなりません。味方がいれば、敵も存在することになります。

では日方の敵は?

すでに私たちは様々な場所を訪問し、おおよその答えを知っています。山幸彦こと猿田彦五十猛命です。

天之忍穂耳が海幸彦であり、海幸山幸神話とは、権力闘争を元にした寓話であると、あれだけ書いてきて、肝心の自分がこの神社にも当てはまることに気づいていませんでした。

筑紫野市原田 筑紫神社 - 美風庵だより

筑紫神社を境目に、筑前筑後が分立していることばかりが注目されます。
この城山(花立山)もまた筑前筑後の境界であり、日方、つまり天之忍穂耳・天照大神・高木大神を戴く部族にとっての「筑紫神社」だったのです。

注意すべきは、ここに神社が出来たのは元禄年間(1688年~1704年)であり、それまでは城だった点で、牽強付会と言われても困りますから、控えめに指摘しておきます。

過去の訪問記録

小郡市干潟 日方神社 - 美風庵だより


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[福岡県神社誌(抄)] 下巻420頁
[社名(御祭神)]日方神社(伊弉諾伊弉冉、天忍穂耳)
[社格]無格社
[住所]三井郡立石村大字干潟字城山
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2021.02.21訪問)

朝倉郡筑前町山隈 菊池武光公太刀洗之碑


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逆光で読めないと思いますが「菊池武光太刀洗之碑」とあります。

菊池武光 - Wikipedia

南軍は高良山に陣を敷き、対する少弐軍は筑後川右岸の味坂に軍を進め、ここに史上名高い筑後川の戦い(大原合戦・大保原合戦)の幕が切って落とされた。
この合戦は菊池軍4万、少弐軍は6万の兵力を擁したと伝わり、まさに九州の合戦史上最大の戦いとなった。この合戦では、7月19日に菊池勢が筑後川を渡河したのを機として、少弐勢が大保原に退いて以降一進一退の攻防が続いたが、8月7日に両軍の主力が激突する大激戦となった。この日の激戦は、南軍の総帥である懐良親王が3ヶ所の深手を負うほどであったが、武光をはじめとした南軍諸将の奮戦もあってこれに勝利した。少弐勢は総大将・頼尚の子息・少弐直資が戦死したのをはじめ、2万以上の死傷者を出し大宰府へ敗走、一方の菊池勢も武光の甥である菊池武明や一族の赤星武貫らが戦死し、こちらも多くの死傷者を出したため、これを追撃する余力は無かったといわれる。なお、この戦いの後に、傷ついた武光が己の太刀についた血糊を小川で洗った事から「太刀洗」(現福岡県三井郡大刀洗町)の故事が生まれたと伝わる。この他、筑後川古戦場付近には「大将塚」、「千人塚」、「五万騎塚」などこの時の合戦に由来する地名が数多く残されている。

 ここから自転車で数分の三井郡大刀洗町山隈に「大刀洗公園」があり、そこに菊池武光公のブロンズ像が設置されています。

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朝倉郡筑前町山隈三井郡大刀洗町山隈だけでなく、じつは小郡市山隈もあります。むかしはひとつの地域だったものが、江戸時代に秋月藩領の山隈村・久留米藩領の山隈村に分立し、さらに明治の町村制成立のとき、現在は小郡市(旧立石村)の山隈と、大刀洗町(旧大刀洗村)の山隈に分かれます。

大刀洗町太刀洗駅があるわけではなく、太刀洗飛行場があるわけでもない。わかりにくい」と、若い方から言われることがあります。明治22年(1889年)、御原郡高樋村、上高橋村、今村、鵜木村、山隈村、下高橋村が合併して「大刀洗村」となったことから想像できるように、要は広域地名を、合併に際して或る地域だけが専称しちゃったために、起こった混乱なのです。

このあたり、八女郡羽犬塚町が「筑後市」、八女郡福島町が「八女市」、夜須郡夜須町・三輪町が「筑前町」となって、広域地名を自分のものにしてしまった関係と似ています。そういえば、嘉穂郡嘉穂町なんてのもありましたね……。

市区町村ID インデックス | 歴史的行政区域データセットβ版

どうしても古い資料と現在の地名の関係が理解できないとき、このホームページにたいへん助けられています。ほんとうに便利な時代になりました。

朝倉市持丸 仏堂?


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2月7日、大嶽神社側から大平山に登りました。帰路、道の横に灯篭が見えます。自転車を停めて登っていくと、お地蔵さんがありました。

この場所は池にはさまれており、てっきり水神様かなにかかと思っていたのですが、違うようです。

(2021.02.07訪問)