松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

小郡市干潟 阿蘇神社 再訪


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2019年10月に訪問した阿蘇神社を再訪しました。

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たまたま漢和辞典を引いていて阿蘇の阿とは「くま」を意味することに気づきました。つまり、阿蘇とは「くまそ」なのです。朝廷が敵だとした熊襲の別名が阿蘇とはいっけんわかりにくい構図ですが、熊襲阿蘇のすべてが朝敵ではなかったと考えるのが自然でしょう。なにせ、現皇室の祖である天之忍穂耳(草部吉見)は、熊襲阿蘇から高木大神(高皇産霊神)が婿に迎えた男です。そして、草部吉見の弟健磐龍命の血統が、いまも阿蘇宮司家として続いています。

昔から出雲大社(千家家)、阿蘇神社(阿蘇宮司家)、皇室だけが神代から続いている家系だという話を聞いていました。学生の頃、なぜ阿蘇と言えば熊襲なのに現在まで残っているのか?朝敵だったのでは?と不思議で仕方がありませんでした。しかし、そもそも今の皇室が熊襲の血をひいているとなれば、残るのも当然と言えば当然なのです。

では出雲は?と言えば、ほんらいの大将格である大幡主(博多のお櫛田さん)の子 豊玉彦(豊国主、豊前坊、思兼命、秩父大神)がやはり高木大神(高皇産霊神)の婿となっており、完全抹消されずに済んだとみることが出来ます。

大山祗(月読命)の子 大己貴は大幡主の婿となり大国主を名乗ります。高木大神に敗れ日本書紀で天日隅宮(現在の出雲大社)を建て「天穂日命(これも大幡主の別称もしくは一族です)」に祀らせることになりました。天穂日命の血統(千家家)は、大国主本人と違い高木大神との姻族関係があって、完全抹消を免れ、大国主の祭祀と引き換えに代々生き延びることを許されたとみてよいでしょう。

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境内にある生目八幡神社が何故平景清公が御祭神なのに「八幡」なのか?という疑問も、平景清公はあとからのこじつけだと気づけば、謎は氷解します。

垂仁天皇 - Wikipedia

垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は日本の第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日)。『日本書紀』での名は活目入彦五十狭茅天皇。治世には様々な起源伝承が語られる。実在性は定かでない。

(略)

御間城天皇崇神天皇)の第3皇子。

(略)

活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと) - 『日本書紀
活目天皇(いくめのすめらみこと) - 『日本書紀
活目尊(いくめのみこと) - 『日本書紀
伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) - 『古事記
伊久米天皇 - 『常陸国風土記
生目天皇 - 『令集解』所引「古記」

要は、崇神天皇の関係者(実子?血縁者?)である垂仁天皇を、八幡神として祀っているのです。

元々八幡神とは武神であり、おそらくその初代は大幡主(博多のお櫛田さん)であっただろうと思われるのですが、後世、様々な系統が名乗るようになります。現在では、(崇神天皇の子と理解している)応神天皇八幡神とするのが通説となっているものの、正八幡・元八幡といった社号をもつ神社を中心に、応神天皇以外の八幡神が祀られる事例も少なくありません。

この辺り、初代征夷大将軍坂上田村麻呂だけれど、誰でもまず征夷大将軍といえば徳川家を思い浮かべるのに近いでしょう。

過去の訪問記録

小郡市干潟 阿蘇神社 - 美風庵だより
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福岡県神社誌:中巻202頁
[社名(御祭神)]阿蘇神社(健磐龍命素戔嗚命、菅原神、多紀理姫命、多紀津姫命、市杵嶋姫命、天照御魂神)
[社格]村社
[住所]三井郡立石村大字干潟字下屋敷
[境内社(御祭神)]生目八幡神社(景清霊神)
(2021.01.24訪問)

嘉麻市牛隈 天神社


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朝倉市郡部に、埴安命(大幡主、博多のお櫛田さん)を祀る天神社(田神社)が多数存在します。山を越えたこの嘉麻市牛隈地区にも、埴安命を祀る天神社があるのは福岡県神社誌を読んで気づいていたのですが、なかなか出かける機会がありませんでした。今回が初訪問です。

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本殿の屋根を見ると、梅紋が打たれています。どうやら地元の理解では、ここは菅公を祀る天満宮のようなのです。朝倉市郡にある天神社でも、ずいぶんと梅紋や梅鉢紋を付した社殿・本殿をみてきましたからいまさら驚くことでもないのですが、埴安命(大幡主)では、よほどまずい事情があったのでしょうか……。

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境内にはお稲荷さんがありました。稲荷宝珠が石祠に彫られているので判別できます。また、さきほどの嘉麻市貞月地区の天満宮のように、神武天皇遥拝所の石碑があります。

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天神社の一段下の土地に、貴船神社がありました。

嘉麻市光代 貴布根神社 - 美風庵だより

ここから車で数分の嘉麻市光代地区でも、英彦山の山伏が雨乞いの神様として勧請した記録があり、同様の経緯で勧請されたものなのでしょうか……。

福岡県神社誌:上巻356頁
[社名(御祭神)]天神社(埴安命)
[社格]村社
[住所]嘉穂郡大隈町大字牛隈字宮後
[境内社(御祭神)]貴船神社(記載なし。)
(2021.01.23訪問)

7月12日の日録

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5月29日の日録 - 美風庵だより

梅酒を仕込む。 - 美風庵だより

5月29日から6月4日にかけて、梅酒を仕込みました。

PET容器で梅の実と一緒に仕込んだものは、だんだん梅酒らしくなってきましたが、ウォッカスピリタス)の瓶に取り分けておいたものは、うっすらと梅の香りがするはちみつ入りアルコールといった感じで、まったく動きがありません。実や種子から滲出する成分が、味わいや香りに影響するということがよくわかります。

さすがにこれ以上放置しておいてもしかたがないので、ウォッカの瓶のほうもペット容器のものと混和して保管することにしました。

以前から「半年か1年で梅の実を引き上げて熟成過程に入る」とする作り方がホームページや雑誌で紹介されますが、この結果をみると、梅の実は引き上げないほうがよいのではないか?という気がします。個人的にはこれまでも梅の実は入れっぱなしでしたが、おそらくこれからも、梅の実は入れっぱなしにすると思います。

嘉麻市貞月 天満宮


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ちょうど丁字路のところにあり、前の仕事場に勤務しているころから、前を通ることが多かった神社です。ただ、境内に入るのは、今回が初めてでした。

現地を訪問するまで、最初から天満宮だったのか、天神社から天満宮に変化したものなのかわからなかったのですが、おそらく最初から天満宮だったのではないかと思えます。福岡県神社誌にほとんど記載がなく、由緒についてはあれこれ想像するよりほかはありません。


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ひとつ参考となりそうなのが、大悲庵という寺跡の存在です。江戸時代の文献には現在の福岡市中央区今泉にある長円寺の末寺とあります。その長円寺は、現在の筑前町弥永にあった清月寺を慶長14年(1609年)に黒田藩が移転したものです(注:秋月藩の分立は1623年です)。

秋月藩領も驚くほど安楽寺(現在の太宰府天満宮)からの勧請が多かったところですから、もしかするとここも安楽寺からの勧請で創建されたのかもしれません。

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社殿よりも気になったのは、神武天皇遥拝所の存在です。

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後世に、元々建てられた方角を無視して移築されたものではないと仮定すれば、田川の地を向いて拝むことになります。

【崇神天皇の生誕地はどこか[1]】田川市位登 位登八幡神社 - 美風庵だより

【崇神天皇の生誕地はどこか[2]】田川郡川崎町池尻 大石神社 - 美風庵だより

【崇神天皇の生誕地はどこか[3]】田川郡川崎町田原 正八幡神社 - 美風庵だより

【崇神天皇の生誕地はどこか[4・終]】田川郡川崎町川崎 天降神社 - 美風庵だより

日本書記が分かりにくいのは、意図的に九州王朝の天皇である神武天皇と、背乗り簒奪王朝である現皇室の祖 崇神天皇(中筒男尊)を意図的にごちゃ混ぜにしている点にあります。

崇神天皇 - Wikipedia

日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「はつくにしらすすめらみこと」と読める。「初めて国を治めた天皇」と解釈するならば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。これについては、神武の称号にみえる「天下」という抽象的な語は崇神の称号の「国」という具体的な語より形而上的な概念であるため、本来は崇神が初代天皇であったが後代になって神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたと考える説がある[8](『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある)。

田川の地を遥拝するということは、神武天皇を遥拝しているのではなく、崇神天皇を遥拝しているのでしょうか? 

福岡県神社誌:上巻358頁
[社名(御祭神)]天満宮菅原大神、中将、吉祥女)
[社格]村社
[住所]嘉穂郡大隈町大字貞月字長成
[境内社(御祭神)]高木神社(記載なし。)
(2021.01.23訪問)