松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

朝倉郡筑前町久光 阿弥陀堂


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027 阿弥陀が峰の古だぬき 三輪

集落の中央には、阿弥陀如来堂が建っていた。祭壇には、金箔を施した阿弥陀如来さまが鎮座されておられる。
表の説明板には、「ここには古狸の人身御供(ひとみごくう)の伝説がある」と書いてあった。
(略)
案内してくれた役場の人は、よくぞこんな小さなお堂を訪ねてくれたと喜び、自慢そうに、「明治期、この仏像が国宝の指定に値するかどうか論議された折、像に施された必要以上の金箔が災いして選から漏れた」話をたらたら。

目配山登山の途中で気になり訪問した阿弥陀堂です。この阿弥陀堂にまつわる言い伝えについては、上記のホームページを参照していただきたいと思います。

どちらかというと気になるのは、かえるまたの下に彫られた花菱紋です。

元は伝教大師作の仏像があったということから、ここは天台宗?そこに花菱紋?どうもよくわかりません。

(2020.12.12訪問)

久留米市御井町 仏堂


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高良山ハイキングコース案内(登山地図)

高良山を吉見嶽コースから登った際、尾根にあがりついてすぐ祠と奉納された石仏に出くわします。

中央部の土がやたらとふかふかなのは、猪かなにかが掘り返した跡でしょうか?

(2020.11.28訪問)

 

5月30日の日録(高良山登山編)

本日もなんとか休日でした。

健康のため、高良山を登ることに決め、朝、8時に家を出て、8時半に西鉄甘木駅を出発する柳川行き電車に乗りました。

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西鉄久留米駅モスバーガーで朝食をいただきます。やっぱりフィッシュバーガーがいちばん美味いと思います。

店を出て、西鉄久留米バスセンターで「竹の子」行きのバスを待っていたら、仕事場でトラブルがあったと電話がありました。「いまどこ?すぐ行ける?」と言いながら、背後のアナウンスや雑踏の音に気づいたらしく、「他を探す」とのこと。数分も経たずに昼から他の者をやると連絡があり、なんとか免れました……。

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今回歩いた経路です。GPSのログで約10kmほどでした。

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路線バスは10時に終点の竹の子バス停に到着し、そこから後谷コースの入り口まで歩きます。今回は、後谷コースで林道まで登り、高良山林道を歩いてつつじ公園側に回り込むコースで、傾斜がゆるく歩きやすい経路を選択しました。ここ最近運動不足ですから、軽いウォーミングアップということで……。

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ジョギングしているかたや、下山中のかたと挨拶をかわしているうちに、公衆トイレのある休憩所にたどり着きました。

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舗装された林道にはいると、すれ違う登山客がめっきりと減ります。あまりに歯ごたえのないコースなので、選ばないようです。歩いているうちに、温石温泉との分岐点にたどり着きます。

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夏目漱石の歌碑がある、林道の合流点(三差路)に出ました。この歌碑の横からも登山道が伸びています。なかなか利用しているひとを見かけませんが、いちおうまだ現役のはずです。

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途中、古処山と秋月・甘木方面をみることができます。耳納スカイラインとの合流点にも、漱石歌碑と東屋があり、休憩場所として整備されているようです(現状は荒れていますが)。

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東屋のちょうど反対側、標識の裏手あたりから再び山道に入ります。利用者がほとんどないのかすっかり荒れてしまっていますが、元はちゃんとした登山道でした。

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途中、野イチゴが群生しています。2,3個くちに入れてみると、懐かしい味がしました。むかしは野イチゴをつんで砂糖で煮詰めた自家製ジャムをつくったりしたこともありましたが、そもそもパン食をほとんどしなくなってしまいました。齢50近くになり、食うものはどんどん和食中心になってきています(注 モスは別です)。

これだけ荒れていれば朽ちていてもおかしくないのですが、案内標識がまだ残っていました。

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つつじ公園の休憩所に至る道に合流し、休憩所で一休みします。外は家族連れやソロ登山の皆さんでにぎやかです。むかしほどではありませんが、だいぶ活気が戻ってきました(いい悪いは別として)。

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今回は休憩所で休憩させていただいたので、公園の売店に立ち寄らず、北面コースに向かいます。

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もっとゆっくり歩きたかったのですが、背後から複数の男女の歌声がします。振り返ると、どうやら公園売店のまえで屈伸運動をしていた高校生?のグループのようです。

「あのおっさんのペースに合わせよう」という声も聞こえてくるため、追いつかれないようペースを上げなければならず、疲れます。知らんおっさんをペースメーカー代わりにするか?と思いつつ、背後の合唱に少々いらつきます。

北面コースをぬけ、民地が近づいたころになって「あ!わかった!ここに出るんだ!」と女の叫ぶ声がします。どうやら普段トレーニングで利用しているエリアに合流したようです。「なーーーんだ」という声もします。

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高良山茶屋 望郷亭 - 御井/うどん [食べログ]

さすがに12時近くということもあって、高良山茶屋はほぼ満席でした。展望の良い席は先客で埋まっており、厨房側のカウンターで肉うどんとおいなりさんをいただきました。合わせて800円でした。

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二の鳥居から石段をあがる経路は足にくるため、わざとつつじ園ルートを利用して高良大社に向かいます。

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このルートは、御神鶏の小屋やクスノキがある辺りに出ます。高良大社の社殿がすぐ見える位置です。

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社殿に打たれている三つ巴紋を間近でよくよく眺めると、尾が長く水巴紋に近い意匠です。要はこれ「有馬巴紋」という有馬のお殿様がつかった家紋のひとつなのですが、この紋章を見るたび、花菱紋も木瓜紋すらも制限された玉垂宮の歴史をみるようで、心苦しいものがあります。

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帰路は、高良内コースを利用しました。石段なしで高良大社に直登できる経路で、表参道よりはるかに疲れずに済むため、個人的に最も好きな経路のひとつです。

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山道は高良山林道を過ぎたところから舗装路となり、妙見宮が左手に見えてきました。

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登山の無事を妙見宮に感謝しました。

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竹の子バス停と、バスの折り返し場が見えてきたのでここでGPSのログを停めました。13時13分発の西鉄久留米行きに乗り、西鉄久留米駅から甘木行電車に乗り換えて帰宅しました。

 

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昨日、地元町内会で管理している天満宮の梅を収穫しました。過去の梅酒を片付けて保管(熟成)場所をつくる必要があり、各種ペットボトルに詰め替えました。10本ほどつくったのですが、みりんやしょうゆのボトルに詰め替えたものは引き取り手がありませんでした。「梅酒とは思えない。どうしてこんなに黒いのですか」とのこと。

濃い原因はわかっています。

(1)ホワイトリカーでは梅の水分で薄まりすぎるかもしれなかったので、スピリタスを足してアルコール度数を大幅に増強しています。(2)金づちでたたいて梅の実を割り、さらに冷凍して細胞を破壊しました。(3)砂糖に蜂蜜も加えました。

炭酸水で割るとき、ふつうの梅酒の半分ほどで充分香りが立ちます。やりすぎたのですかね……。あまりここら辺の事情に詳しくなさそうなひとに、誰か押し付けようと思います。

久留米市山川町 山川護国神社(山川招魂社)


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福岡県神社誌では山川護国神社とありますが、現地の扁額は「山川招魂社」です。
招魂社と言ってもピンと来ないかたもおられるはずなので、wikiの一部を引用します。

招魂社 - Wikipedia

招魂社(しょうこんしゃ)は明治維新前後から、また以降に国家のために殉難した死者を奉祀した各地の神社。
(略)
1863年文久3年)に高杉晋作は、下関戦争での戦没者の霊を慰めるため、また、今後の戦いに臨むに当たって自分たちの生墳(生前にあらかじめ建てておく墓)が必要であると発起し、奇兵隊の賛同を得て隊員共同の招魂場を設置することになった。日本初の招魂社となる櫻山招魂場(現・櫻山神社)は1864年(元治元年)5月に山口県下関市に築かれ、翌年8月に社殿が完成した[1]。櫻山招魂場は、その後の四境戦争、戊辰戦争戦没者を始め、吉田松陰久坂玄瑞といった倒幕と維新のために尽力した志士を合祀している[1]。
生前の身分に関わらず個々の戦没者を隠り身として祀る招魂社の発想は、その後全国に広がった[1]。 東京招魂社は1879年(明治12年)に明治天皇命名により靖国神社と改称、地方の主な招魂社は1939年(昭和14年護国神社と改称している。

御井町誌 第一章 現 代 の 語 部 1-2

招魂社
尊王の同志を募り、志半ばにして久留米で切腹をした高山彦九郎、同じく勤皇倒幕を唱え、ついに元治元年(一八六四)七月蛤御門の変に敗れ、京都府下天王山で自刃した水天宮祠官、真木和泉守。それに明治維新前後に斃れた久留米藩士三十余人。これらの霊を弔うため、明治三年二月、旧久留米藩主有馬頼咸公が、山川村旗崎の地、すなわち茶臼山の松林の中に祀られたのが招魂社である。
明治六年八月には、地方官民有志が協力して山上に一社殿を建て、御楯神社と称した。それ以来この地は陸軍墓地となり、明治七年佐賀の乱をはじめ、その後の戦役において戦死した人達の眠る霊地となったのである。
毎年十月二十日には招魂祭が催される。

今回も「御井町誌」から引用しました。昭和18年(1943年)に福岡県護国神社が設立されるまで、福岡県内には旧藩単位で複数の護国神社がありました。ここは、久留米藩主有馬公が創建した護国神社です。

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ゼンリンの地図を見て、ほぼ感覚的に良山中学校の校舎裏手から入ってしまいましたが、どうやらこちらは裏参道とでも言うべきものだったようです。石段の脇に、御井町誌でいう陸軍墓地?があります。殉職した警察官の墓碑もあり、必ずしも陸軍とは限らないようです。

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爆弾三勇士 - Wikipedia

第一次上海事変中の1932年(昭和7年)2月22日、日本軍が蔡廷?率いる国民革命軍19路軍が上海郊外(現在は上海市宝山区)の廟行鎮に築いたトーチカと鉄条網とクリークで守られた敵陣へ突入するため、鉄条網を破壊する作戦が決定される。この作戦に約36名が志願し、前述の3名が選ばれ、突撃路を築くため点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破。自らも爆発に巻き込まれて3人は戦死したが、鉄条網の破壊には成功した。戦闘工兵の任務の中でも非常に危険性が高いものではあるが、必死の作戦ではなかった[1]。
(略)
3名は戦死後それぞれ二階級特進して、陸軍伍長となる[注釈 1]。事件の直後2月24日には『東京朝日新聞』で「「帝国万歳」と叫んで吾身は木端微塵」、25日に『西部毎日新聞』で「忠烈まさに粉骨砕身」、『大阪朝日新聞』で「葉隠れ主義の露堂々」など、美談として広く報道され反響をよび、壮烈無比の勇士としてその武功を称えられた。軍国熱も高まり映画や歌にもなり、陸軍始まって以来ともいわれる弔慰金が集まった。

(略)

教科書で取り上げるべしという意見も多く挙がり、1941年から45年までの初等国語科と唱歌教材[9]に取り上げられた。

私の祖母も祖父も大正生まれだったためか、私が軟弱者であると思えば必ず説教に爆弾三勇士の話が出てきたものです。

我等が上に戴(いただ)くは
天皇陛下の大御稜威(おおみいつ)
後に負うは国民の
意志に代われる重き任(にん)

いざ此の時ぞ堂々と
父祖の歴史に鍛えたる
鉄より剛(かた)き「忠勇」の
日本男子を顕(あらわ)すは


爆弾三勇士の歌 (歌詞改訂前)

小学生の前で歌われても言葉の意味すらわからなかったのですが、「爆弾三勇士の歌」の歌詞をあらためて読むと、すごいですね……。 

しかも、与謝野鉄幹ですこれ。

福岡県神社誌:下巻340頁
[社名(御祭神)]山川護国神社( )
[社格]護国神社
[住所]三井郡山川村茶臼山
[境内社(御祭神)]記載なし。
[摂社(御祭神)]記載なし。
[末社(御祭神)]記載なし。
(2020.11.28訪問)