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鳥居の扁額には「八幡宮」とあります。社殿はまだ新しく、福岡県神社誌では境内社が2社あることになっていますが、見当たりません。改築の際、合祀したのでしょうか?
境内の記念碑を見ると、どうやら明治12年(1879年)に新築されたものを、平成26年(2014年)に改築したとのことです。明治6年(1873年)に村社とされていますから、おそらくこの地に、ずっと鎮座しているのでしょう。
御祭神は、応神天皇、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、仁徳天皇の3柱です。
仁徳天皇 - Wikipedia
応神天皇40年1月8日、兄の大山守命と大鷦鷯尊は父の譽田天皇*1に「年長の子と年少の子はどちらがより愛おしいか?」と尋ねられた。大山守命が年長だと答えたが、大鷦鷯尊は末弟の菟道稚郎子に跡を継がせたいという父の気持ちを見抜いていたので「年少は未だ未熟であり大変心配で愛おしいものです」と答えた。1月24日、菟道稚郎子は皇太子、大鷦鷯尊は太子の補佐役、大山守命は山川林野の管理人に任じられた。
翌年の応神天皇41年2月に父帝が崩御すると大山守命は菟道稚郎子から皇位を奪おうと軍勢を整えた。大鷦鷯尊が菟道稚郎子にこれを知らせると、菟道稚郎子は大山守命を罠に嵌めて川に落として溺死させた。しかし即位が決定したはずの菟道稚郎子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとした。大鷦鷯尊はあくまで菟道稚郎子を即位させるつもりだったので三年も続く皇位の譲り合いが始まってしまった。貢物の届け先を巡って海人が右往左往する逸話が残っている。事態を重く見た菟道稚郎子は自ら死を選び(『古事記』では病死)、大鷦鷯尊が即位することとなった。
この応神天皇と、次の皇位を譲り合った(独りは武装蜂起ですが)とされる皇子たちは、私はほんとうの血縁者ではないとみています。
日本書紀では、応神天皇を「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」と表記しています。次の仁徳天皇は「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)」と記され、さらにその次の履中天皇の名は「大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)」です。要は、神武天皇から高良玉垂命につながる正統皇室の系譜と、崇神天皇-応神天皇-履中天皇とつながる現皇室の系譜のあいだで、権力闘争(王朝簒奪?)があったことがわかります。
なぜ仁徳天皇を「聖帝」と日本書紀や古事記で礼賛するかといえば、現王朝側から見れば、皇位を譲ってくれた大恩人だからなわけで、せめてヨイショくらいしなければ、罰があたろうというものです。
現地を訪問するまで、若宮八幡だから仁徳天皇をメインで祀る神社だとばかり考えていましたが、どうやら、ここの若宮とは、皇位の奪い合いの過程で死んだ菟道稚郎子ではないか?という気もしてくるのです。むろん、現時点では推論に過ぎません。今後、慎重に検討していく必要がありそうです。
福岡県神社誌:下巻273頁
[社名(御祭神)]若宮八幡神社(誉田別天皇、兎遅若郎子命、大鷦鷯天皇)
[社格]村社
[住所]京都郡諌山村大字宮原字上原
[境内社(御祭神)]春日神社、白延神社
(2020.10.03訪問)