松村かえるの「かえるのねどこ」

旧「美風庵だより」です。

朝倉市江川 稲荷神社


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朝倉市江川地区下戸河内集落にある稲荷神社です。福岡県神社誌でもほんの少ししか記述がなく、比較的町部に多い稲荷神社が何故ここに存在するのか、どうもいまいち呑み込めません。

(爆発的に増殖した)江戸時代に豊作の神としてここに祀られたのかもしれませんし、それ以前から存在しているのかもしれません。もし、以前からあったのだとすれば、倉稲魂命(うかのみたま)こと天細女(あめのうずめ、またの名は豊受大神)の祖父が大山祗(月読命)であること、そしてこの下戸河内集落は小石原を通じて田川・英彦山方面との街道沿いにあることも、考慮しておかなければならなくなります。

それにしても、現地を流れる小石原川の支流のきれいなこと。

子供のころ、ウジ虫を釣り針に刺して、こんな川で釣り糸を垂れていたことを思い出します。

福岡県神社誌:下巻407頁
[社名(御祭神)]稲荷神社(倉稲魂命
[社格]無格社
[住所]朝倉郡上秋月村大字江川字登尾谷
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2020.10.10訪問)

 

京都郡みやこ町勝山浦河内 神社跡?


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地理院地図には鳥居マークがあるのですが、ゼンリンにもgoogleマップにも記載がありません。

どんな神社なのだろうと、地図の情報をたよりに車を走らせます。

途中から離合困難な1車線道路となり、対向車が来ないかヒヤヒヤしながら登ります。集会所に車を停めて地図で見当つけた場所に徒歩で向かうと、廃車が棄てられており、その横に、奉納と彫られた幟旗の柱(旗杭)が見えます。

孟宗竹が伸び、なんとか参道であることがわかる坂を登っていくと……。

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完全に朽ちて潰れていました。

帰り際、あらためて幟旗の柱をよく見ると「昭和40年奉納」とあります。

約50年前までは、ちゃんと祭祀が行われていたということなのでしょうか……。

福岡県神社誌:記載なし(発見できず?)
[社名(御祭神)]?
[社格]?
[住所]?
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2020.10.03訪問)

京都郡みやこ町勝山浦河内 若宮八幡神社(河内八幡宮)


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さきほど訪問した勝山宮原地区の若宮八幡神社とほぼ祭神は同一ですが、安閑天皇が増えています。福岡県神社誌に、大正12年(1923年)に字河内山の金峰山神社を合祀したとあり、蔵王権現の神様として、安閑天皇が加えられたことがわかります。

安閑天皇 - Wikipedia

後世、神仏習合の教説で蔵王権現と同一視されたため、明治時代の神仏分離以降に、従来蔵王権現を祭神としていた神社で安閑天皇を祭神とし直したところが多い。

ここで重要なのは、安閑天皇の皇居は「勾金橋宮(まがりかなのはしのみや)」と呼ばれている点です。この勝山浦河内地区から車で近い場所に、現在は田川郡香春町の一部となっていますが、勾金村が存在しました。

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安閑天皇の在位は531年~536年ごろとされており、この時代、高良玉垂宮は存在していますが、まだ宇佐神宮は成立していません。

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高良玉垂宮神秘書では、聖武天皇の時代に宇佐宮が造営され、九州宗廟を譲ったとありますから、おおよそ700年ごろです。また、神秘書をはぐっていると、香春岳を高良峰としている記述が目にとまります。「彦権現は敵神」と名指しで敵視している同書ですが、この記述からも、元々は玉垂宮の(神武天皇から玉垂命につづく正統王朝)と、彦権現(天之忍穂耳とその子孫である崇神天皇一派)の権力闘争が見えてきます。

仁徳天皇 - Wikipedia

しかし即位が決定したはずの菟道稚郎子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとした。大鷦鷯尊はあくまで菟道稚郎子を即位させるつもりだったので三年も続く皇位の譲り合いが始まってしまった。貢物の届け先を巡って海人が右往左往する逸話が残っている。事態を重く見た菟道稚郎子は自ら死を選び(『古事記』では病死)、大鷦鷯尊が即位することとなった。

おそらく、こういうかたちでしか権力闘争を表現できなかったのではないか?といまは考えるようになりました。なかなか歴史は奥が深い……。

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拝殿をみると、なにやら歌人肖像画とおぼしき絵が多数掲げられています。これはいったい……。

福岡県神社誌:下巻274頁
[社名(御祭神)]若宮八幡神社(誉田別天皇、兎遅若郎子命、大鷦鷯天皇安閑天皇
[社格]村社
[住所]京都郡諌山村大字浦川内字イノ原
[境内社(御祭神)]記載なし。
(2020.10.03訪問)

京都郡みやこ町勝山宮原 若宮八幡神社


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鳥居の扁額には「八幡宮」とあります。社殿はまだ新しく、福岡県神社誌では境内社が2社あることになっていますが、見当たりません。改築の際、合祀したのでしょうか?

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境内の記念碑を見ると、どうやら明治12年(1879年)に新築されたものを、平成26年(2014年)に改築したとのことです。明治6年(1873年)に村社とされていますから、おそらくこの地に、ずっと鎮座しているのでしょう。

御祭神は、応神天皇菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、仁徳天皇の3柱です。

 

仁徳天皇 - Wikipedia

応神天皇40年1月8日、兄の大山守命と大鷦鷯尊は父の譽田天皇*1に「年長の子と年少の子はどちらがより愛おしいか?」と尋ねられた。大山守命が年長だと答えたが、大鷦鷯尊は末弟の菟道稚郎子に跡を継がせたいという父の気持ちを見抜いていたので「年少は未だ未熟であり大変心配で愛おしいものです」と答えた。1月24日、菟道稚郎子は皇太子、大鷦鷯尊は太子の補佐役、大山守命は山川林野の管理人に任じられた。

翌年の応神天皇41年2月に父帝が崩御すると大山守命は菟道稚郎子から皇位を奪おうと軍勢を整えた。大鷦鷯尊が菟道稚郎子にこれを知らせると、菟道稚郎子は大山守命を罠に嵌めて川に落として溺死させた。しかし即位が決定したはずの菟道稚郎子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとした。大鷦鷯尊はあくまで菟道稚郎子を即位させるつもりだったので三年も続く皇位の譲り合いが始まってしまった。貢物の届け先を巡って海人が右往左往する逸話が残っている。事態を重く見た菟道稚郎子は自ら死を選び(『古事記』では病死)、大鷦鷯尊が即位することとなった

 この応神天皇と、次の皇位を譲り合った(独りは武装蜂起ですが)とされる皇子たちは、私はほんとうの血縁者ではないとみています。

日本書紀では、応神天皇を「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」と表記しています。次の仁徳天皇は「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)」と記され、さらにその次の履中天皇の名は「大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)」です。要は、神武天皇から高良玉垂命につながる正統皇室の系譜と、崇神天皇-応神天皇-履中天皇とつながる現皇室の系譜のあいだで、権力闘争(王朝簒奪?)があったことがわかります。

なぜ仁徳天皇を「聖帝」と日本書紀古事記で礼賛するかといえば、現王朝側から見れば、皇位を譲ってくれた大恩人だからなわけで、せめてヨイショくらいしなければ、罰があたろうというものです。

現地を訪問するまで、若宮八幡だから仁徳天皇をメインで祀る神社だとばかり考えていましたが、どうやら、ここの若宮とは、皇位の奪い合いの過程で死んだ菟道稚郎子ではないか?という気もしてくるのです。むろん、現時点では推論に過ぎません。今後、慎重に検討していく必要がありそうです。

福岡県神社誌:下巻273頁
[社名(御祭神)]若宮八幡神社(誉田別天皇、兎遅若郎子命、大鷦鷯天皇
[社格]村社
[住所]京都郡諌山村大字宮原字上原
[境内社(御祭神)]春日神社、白延神社
(2020.10.03訪問)

*1:応神天皇のこと