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添田神社の隣に鎮座しています。
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白山神社は『白山神社縁起』によると昔、新羅国曽褒里から3神が岩石山にやって来て、岩石山に草木が生えるようにした。その後、吾勝尊(天忍骨尊) が天降ったという。保元3(1158)年に平清盛の家臣の大庭景親が岩石城を築城した折、豊比咩神社と曽褒里宮を合わせて白山明神を興して岩石山西麓に白山権現社を移した。その後宮崎家が代々宮柱家として造営してきた。
(「第2章 添田町の維持向上すべき歴史的風致」80ページ)
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朝鮮から3人の神様が渡ってきてこの地を開拓し、その後、天之忍穂耳が天下ったという伝承をしっかりと記録に残した添田町教育委員会の姿勢は素晴らしいものです。いまの神社本庁なら抹消を指示するでしょう。少なくとも神社本庁の支配下で資格をとった者なら「忖度」して率先して無視しかねません(もしくは国つ神と一段おとしめて扱うでしょう)。
では、この3人の神様は朝鮮人だったのか?私はそうは考えていません。
天照大神とスサノオが喧嘩して新羅のソシモリに一時逃亡した話は、記紀にも記されていることです。濃厚な往来があって、ある特定の過程だけが記録されたのだと考えています。
Y染色体ハプログループの分布 (東アジア) - Wikipedia
私達の御先祖は、様々なルートから日本に移住してきました。
大昔はいまよりもはるかに経由地との交流は濃密であったはずです。半島と九州を行き来しながら、各地を開拓していったのでしょう。その痕跡は、田川郡香春町の香春神社にもあるのですが、いずれこの「神社めぐり」シリーズで取り上げることもあろうかと思います。
どうも伝承は、朝鮮と往来して活躍していた3人の神様をイザナギ、イザナミ、天之忍穂耳(英彦山)とすり替えているようです。白山宮と名乗りながら、実質的に英彦山神宮だとしているのです。
過去に、御祭神だけでもごまかさないとつぶされる時代があったのでしょう。
実際には、天之御中主や大幡主の一統だったのではないでしょうか。
ひとつ気になるのは「豊比咩神社」があったという記載です。
久留米市北野町大城 豊姫神社(豊比咩神社) 再訪 - 美風庵だより
豊比咩神社が筑後のどこに在ったのか、これまでにもいろいろと書いてきました。
その豊比咩神社がなんと添田の地にあったとは……。考えてみれば父親の豊玉彦は豊前坊高住神社をはじめ各地にお祀りされているし、旦那の猿田彦(山幸彦)も筑後平野だけでなくこの田川の地にも濃厚に痕跡を残しているわけですから、ここが仮に生地であってもおかしくはないわけです。その後、田心姫として久留米市北野町大城に拠点を移したと考えてもよいのかもしれません。
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福岡県神社誌:下巻455頁
[社名(御祭神)]白山社(伊弉諾命、伊弉冉命、天之忍穂耳尊、猿田彦命)
[社格]無格社
[住所]田川郡添田町大字添田字権現森
[境内社(御祭神)]記載なし。
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(2020.06.20訪問)