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2019年夏にいちど訪問する予定をたてていたのですが、道路工事で近づけず、日を改めるつもりがそのまま忘れ、2020年4月にやっと訪問することができました。
急な石段の先にみえるのは拝殿だろうと見当をつけて登り、中に入って「割拝殿(真ん中が土間の形式の拝殿)とは珍しい」と思っていたら、さらに石段が続きます。どうもこの建物は拝殿ではなく、石段の途中に2か所設けられた休憩所のようです。
神社の入り口に、立派な燭台があります。まるで寺のようです……。
社殿に入ると、脇にはお祈りの際に唱える御真言が掲げられており、左右の壁には、がん手術の成功を祈念する手紙や、病気が快癒したお礼の手紙が多数張り付けられていました。まさか自転車で1時間ほどのところに、このような民間信仰の場があるとは夢にも思わず、驚いてしまいました。
社殿脇に神社を改築した記念碑があります。読み進めていくと、粟島大明神は女神であるとあり、驚いてしまいました。私たちの理解では、淡島(粟島)神社(淡島(粟島)大明神)とは、少彦名命、つまり事代主(えびす様)の別名だからです。
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1.少彦名神とする説。少彦名神が医薬の神とされていることや、『古事記』や『伯耆国風土記』に、国造りを終えた少彦名神が粟島(あわしま)から常世の国へ渡って行ったとする記述があることによる。加太淡島神社を始めとする多くの淡島神社がこの説を採っており、祭神を少彦名神、および、ともに出雲の国造りをした大国主神としている。
(略)
3.住吉明神の后神であるとする説。淡島神は天照大神の6番目の御子神で住吉明神に嫁いだが、婦人病にかかったことにより粟島に流されてしまったため、そこで婦人病の人々を救うという誓いを立てたという。これは和歌山市加太と対岸の友ヶ島が住吉神社の社領であったことから後世に附会されたものと考えられる。
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ここで気になるのは、御神体は神功皇后ゆかりの物とされている点です。すでに私たちは、高良玉垂宮神秘書で、初代住吉大明神 鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)の後継となった安曇磯良、崇神天皇、玉垂命が住吉三神の正体であることを知っています。
玉垂命の妃が神功皇后であることに気づいていれば、3.の説も一部は真実を含んでいるとみることができます。玉垂命には実子と(神功皇后の)連れ子あわせて9人の男子(九躰皇子)が居たとされていますから、(子供がごろごろ居た)神功皇后が出産・安産の神でもおかしくはありません。
少なくともこの日向石の粟島神社に関して言えば、薬の神としての大己貴・少彦名命と、安産の神としての神功皇后が、ひとつの粟島大明神に融合しているとみてよいでしょう。もう少し踏み込んで解釈させていただけるなら、ここは「聖母宮」の変種なのです。
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☆淡島宮 【望春随筆】宝暦の姶頃、時津宅右エ門と云ふ者あり。至つて富饒にて学頭谷辺下向道辺皆同人の地面也。宇右エ門少し愚なるにより相続ならず、浪人の躰になり、其実父与助より地面皆譲り受たれ共、年々売払又人にだまされ取られ、老年には聊か地面を以て曲りなりに手習の師をし、又竹紬工等いたしかすかに暮しける。仁鳥に手習子あり。同所に12年住居事も有となり。又石紬工も少し心得たるにや、仁烏住居の時、石に淡島大明神と彫付、界の松の傍に建たり。宅右工門死去後は誰かまふ者もなく、草木生茂り石も見へず、松の大木の一本有のみ也。
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宝暦は、1751年から1764年にかけての年号ですので、徳川吉宗死後のことです。いったい彼は何にインスピレーションを受けて、粟島大明神と石に刻んだのでしょうか。これもまた謎といえます。
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福岡県神社誌:下巻407頁
[社名(御祭神)]粟島神社(大己貴命、少彦名命、神功皇后)
[社格]無格社
[住所]朝倉郡上秋月村大字日向石字宇津木谷
[境内社(御祭神)]記載なし。
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(2020.04.19訪問)